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何もフィルターをかけない言葉

実家の引き出しには、小中学校のときに書いていた日記帳が10冊ほど残っている。何の気なしに小5のある日に書き始めて、書きつける作業が面白くて中学卒業まではほぼ毎日、高校に入ってもそれなりの頻度で日記をつけていた。寝る前の時間、長いときは1時間とか2時間かけていた気がする。

その頃は自分が物を書く仕事に就くとはまったく予測していなくて、ただその日にあった嫌なこと、良かったこと、好きな人のこと、面白かった本や番組の感想が連なっている。だいたいが感情の吐き捨てだったのは覚えているので、日記帳の存在を知りつつ開く気にはあまりならなかった。

でもさすがに30年経った今なら大丈夫だろうと、先日帰省したときに引き出し適当な一冊を抜いて開いてみた。うわっ、古い本の匂いがする。下手したら昭和に閉じたままの空気だ。平成がギリギリ終わろうという今になって急に開かれたのだから、日記もびっくりしているに違いない。

手に取ったのは中2から中3にかかる、ちょうど今頃の季節の日記だった。やっぱり記憶していたとおり、クラスの嫌な人の悪口と当時はまっていた刑事ドラマの話がほどんど。時々、当時好きだったクラスメートのことが挟まっている。

日記なので誰かに読ませるものではない。強いていうなら「この先の自分」が読むくらい。どうせ黒いドロドロしたものも、アホみたいにハッピーな話も、消費するのは自分だけだと思って書いている。頭に浮かんだそのままの口調、そのままの順番。書きつける瞬間に多少の「文章の整え」は気にしたかもしれないけれど、絶対今は書けないノリで自分の字が並んでいた。ある種の格好つけや気の利いたことを書いてやれという意識もスケスケに見えている。うわ。

若いねえ、と親戚のおばちゃんみたいな感想が浮かぶ。同時に30年後の今だから開けてよかったとも思った。時間が近すぎるとかなり恥ずかしい。書いた当時の気分もぼんやり残っていて、かつ恥ずかしさが薄れてきた今だからよかった。

客観的に眺めてみると、拙いながら感情をぶつける言葉も結構書いている。なんだ、書けたのか。昔の自分は。そう言う成分はゼロだと思っていたので少し安心する。逆になぜ今は書けなくなっているんだろう。「人に見せる」ためのフィルターがかかりすぎて、何が何やらわからなくなっている。

今度帰省したらちゃんと向き合って読み直して、当時のリズムや発想を辿ってみよう。もともと自分から出ているのだから取り戻すこともできるんじゃないか。

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