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【短編小説】ヨーグルトは戦士の食べ物

上司が道端でヨーグルトを食べていた。
思わずぎょっとして、暗闇の中で目を凝らす。

昼間の公園ならまだわかる。でもここは金曜の夜、人が行き交う駅前だ。
コンビニの光に半分だけ照らされて、情けない。スーツ姿で、背中を少し丸めて、トロトロのヨーグルトを飲むように食べている。

上司といっても4つしか違わない。留年していると聞いたから、27歳くらいか。それにしては老けていて、なんだかあまりカッコよくない。新卒で入社したばかりの麻友にとって、上司は第一印象からカッコいいものであって欲しかった。

チームが発表されるとき、同期とぜったいあの人がいいよね!と盛り上がった細身のイケメンはもれなく外れ、右端にいた一番地味な人が麻友にとって初めての上司となった。それが浅井という男だ。

▶▶▶▶

浅井は、道の反対側からじいっと見つめる麻友の視線に気づいたのか、ふと顔を上げてこちらを見る。おう、と手を挙げてカラになった容器をゴミ箱に投げ入れ、道を渡ってやってくる。

なぜかその時、「私はこの人と結婚するかもしれない」という思いが頭をよぎった。映画のワンシーンのように、ゆっくりと見えたのだ。素敵だという意味じゃない、何か残像が残り、頭をぶんぶんと振りたい気分だった。

「今食べてたのなんですか?ヨーグルトですか?」
「うん」
「…」
浅井はそんなことはどうでも良いという顔で、店に向かって歩きだす。
今夜は麻友が担当を引き継ぐことになった顧客との会食で、前々任である浅井が同席してくれることになっていた。

「あの、私接待とか初めてなんですけど」
何か話しかけなくてはと思い、斜め後ろから声をかける。
「あー今日のは接待じゃない、担当者との、ただの飲み。普通でいいよ。」
浅井の返事は穏やかだが、いつも短くそっけない。
「お酒も、あんまり飲めないんですけど」
「うん、だから、飲まなくていいよ。俺が飲むから。」

▶▶▶

店は駅から5分ほど歩いた路地裏にあった。多少小綺麗ではあるが、普通のちょっと良い居酒屋だ。麻友は内心ほっとした。だが、中に入ると、約束の10分前だというのに相手はすでに到着していた。

「すみません、遅くなりました!」浅井が驚くほどハキハキと綺麗な声を出す。思わず、相手に謝罪することも忘れて浅井を見る。別人のようにさわやかな笑顔だ。

「あさいちゃ~ん!ひさしぶり!」50代後半と思われる男が、浅井を見るなり嬉しそうに手を振る。「ビールでいいよね?」と注文までしてくれた。なんだ、本当にただの飲み会だ。ほっとしていたら、浅井が手でそこに座れと下座を指す。イルカのように調教されている気分だ。下座くらい、研修で習ったのに。

「はじめまして、斎藤麻友と申します。今日はありがとうございます!」
新卒らしく努めて明るく声を出す。「うんうん、今日はありがとうねえ」このおじさん、良い人そうだ。

…という予感は当たらなかった。おじさんは酒を飲み始めると、冗舌になり、やがて毒舌になった。

浅井は軽快に笑いながら、「あの時は、ありがとうございました!」とか「うちの会社には◯◯さんがいないと」などと短い言葉で相手を持ち上げた。

その度に相好を崩すおじさんもまた、イルカのようだった。話の間にも、ねえなんで飲まないの?と麻友のほうにも視線が飛び、曖昧に微笑む。浅井が「そろそろ焼酎にしましょうか!」と焼酎を頼み、氷や水も自分でやりますと女将さんにそっと告げる。

そうしてまた手で麻友に指示を出し、おじさんにはしっかり濃いめの焼酎を、麻友には水だけの焼酎を作らせた。浅井の分は、指示がなかったのでとりあえず普通に作っておいた。

途中で浅井がトイレに立ったとき、
「あさいちゃんはね、まじめなんだよね~ 一生懸命でさ、今だって吐いてるんじゃないの? 頑張りすぎなんだよね」とおじさんが笑いながら鬼のようなことを言った。浅井は笑顔で帰ってきたが、そこから麻友は粛々と水の水割りを作った。

▶▶

会食は楽しくお開きとなり、おじさんは「これからもよろしく頼むね!」とふらふらしながら帰っていった。それを笑顔で見送った後、浅井は自動販売機で水を2本買い、麻友に1本渡してくれた。

「浅井さん、今日はありがとうございました。あの、すみませんでした。もしかして、浅井さんもお酒、弱いんですか?」
「いや、だいじょうぶ。ほら、先にヨーグルト食べたから。あれを飲めば、明日もだいじょうぶなんだよ。」さっきまでの戦闘モードが嘘のように、フワフワとうわ言のように言う。

「それより、よかったなぁ。おまえ、あの人にだいぶ気に入られてたよ。部長に気に入られれば、とりあえず安心なんだ、あの会社は。よかったなぁ。はじめてのお客さんだもんなぁ。」

浅井はそのまま、麻友を駅の前まで歩いて送り、自分は「近いから」とタクシーに乗って帰っていった。タクシーに乗り込む瞬間、いいから早く行け、とまたイルカに合図するように手で制した。麻友はそれを嫌だと感じなかった。むしろその手に触れたいと思った。

家に着くころには、コンビニの前で感じた「結婚するかも」という直感を、心の中で大切に反芻していた。

カレンダーに飲み会の印が書いてあると、麻友は冷蔵庫から買っておいたヨーグルトを取り出す。飲み会に行くのは彼だが、ヨーグルトは自分のため。ヨーグルトの青いパッケージを見ると、新卒だった頃を思い出す。

なんでも、ヨーグルトが膜となり、胃を守ってくれるらしい。本当に効くのかどうか、私は知らない。でも、トロトロとしたそれは、頼りなさそうに見えて身体にきちんと優しい。なんだか彼に似ている。

いま、お腹の中に小さな命が宿っている。時差通勤で16時には退勤させてもらっているので、西日が差し込む小さなダイニングで、ヨーグルトを食べられる。

バナナを薄く切ってのせ、蜂蜜をかけると、何も食べたくない日でもあっというまに食べてしまうから不思議だ。

彼は今夜もまた、コンビニに寄ってヨーグルトを買うのだろう。無理しないでね、と何度も言っているが、心配だ。あんな古臭い飲み方、今思えば全然かっこよくない。

でも。仕事で失敗したとき、後輩が出来たとき、つわりで苦しいとき、気がつけば私はヨーグルトを食べていた。戦士が食べているヨーグルトを食べて、私だって頑張るのだ。

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