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【もうゴールしてもいいよね?】ゴールポストを動かすなというけども。【葬送のフリーレン感想】


フリーレンのアニメ一期が終わりましたが、改めて見て、少し、思うところがあったため、今回、ここ一年分の記事のまとめを兼ねて、最後にフリーレンの感想を綴る事にしました。(ちょい二期のネタバレになりますが。)


ここのところ、書く書く言いながらも、囲碁記事が遅々として進みませんが、つくづく、僕は締切とか約束が守れない社会不適応者なんだなと痛感しました。

思えば、昔から、そうだった気はする。

勇ましい事を言った5分後には泣いて逃げ出したり、その場の勢いで調子良く引き受けたけどグダグダになったり、他の皆が出来てる事が出来ずに言い訳したり。


もっとも、そうなったのには、環境もおおいに影響しているのは間違いないです。

小一の頃の担任は、お局っぽい雰囲気のおばさんで、ガキんちょ相手にかなり厳しい教育をしていた覚えがあるます。(いや本当に無理な基準を要求していたかは覚えてないけど、怖かった。)

当時の僕は人見知りが激しかったんですが、ぶっちゃけ、その人にビビって萎縮していた面もある。


忘れもしない、いまだにトラウマになっているのが、学芸会で『アリババと四十人の盗賊』をすることになり、放課後、暗くなるくらいの時間まで、クラスの大半の演技が出来ない子供が居残りになったエピソード。
(いや、僕は周囲に関心が無かったため、やはり記憶は曖昧なんですが。)

たぶん、主役であるアリババやアラジンとか以外の殆どが誰でも出来る盗賊の脇役だったと考えられるんですけど、なんか呪文みたいなセリフを何度も何度も何度も腹から声出せみたいな事を言われ続けてやり無していた様子が鮮明に頭に残っています。

僕一人ならさすがに泣いて蹲っていたかもしれないですが(泣いてた子もいたかもしれないけど)、皆で大声出してる現場の空気にただただ吞まれていた感じ。

他にも、二、三、そういうエピソードがあるんですが、この担任は別に悪人というわけではなく、担任から外れてからは、たった一年しか付き合いがない生徒にプライベートで実用的な物をプレゼントするなど、結構、社交的で親切な人でした。
(もっとも、遊び道具以外の物欲に乏しい僕は特に嬉しくは無かったんですが。)

ともかく、僕にとっては、それが教育や大人というものの最初のモデルケースの一つになり、それが普通という認識でいました。

社会に馴染めない人間(盗賊A、ただのコソ泥)は、どんな扱いを受けても仕方がない、と。

多少は頭が回る方だったのがマイナスに働いてるのは間違いないと思う。


だから、外では抑圧されるのも受け入れる反面、家でははっちゃける事もあった一方、聞き分けは良かったからか、将来は公務員に向いてるなんて大人に言われる事もあったんですが、これがとんでもない勘違い。

幼少期の教育によって、そうなっていた部分はあるし、以前も言ったように、僕は大人が口にする事、あるいは、そこから自然と連想出来る範囲内のルールに従っていたのであって、大人に従っていたという認識では無かった。

それでも、確かに、最初の内は公務員みたいなお堅い仕事や囲碁だって普通にこなそうとするとは思うのですが、どっかの段階で破綻するのが僕には見えてる。


阿部「泣きたいのは俺の方だよ…」

では、この二つがどう違って、そういう未来に繋がるかって話なんですが、単純に何事にも限度があるよねということ。

例えば、社会人は報連相が大事だというけど、上述の担任の話にもあるように、関係性ありきの話ですよね。

同じ情報であっても、上司には報告した方が良くても同僚にまで話す必要が無いみたいな微妙な案件はあるはずだし、どこまでやるのが適切かは自分で判断しないといけなかったりすると困る。

それに、スムーズにコミュニケーションを取るために、まずは仲良くなるとかにしても、当然ながら、そんな部分までマニュアルがあるわけでは無いし、僕のアリババ事件?のようなトラウマスイッチを押してしまう事もあるため、ますますもって、報連相は難しい。

責任感、強迫観念みたいなものが強い人程、かえって、報連相がやりたくても出来なくなったりしがちなんですよね。

今の若い子たちにしても、昔とは違った気苦労はあるはずなので、世代や性別は関係ないと思う。


僕にしても、僕からすると普通だと思う事、良かれと思ってやる事が色々とズレてるみたいで、戦時中みたいな感覚で他人と付き合う僕は、報連相のやり過ぎで顰蹙を買う事が今でもあるし、死ぬまでそうなのかもしれません。

公務員なんてやろうものなら、マニュアルが多いからこそ、細かい部分での行き違いや、どれか一つが大爆発しかねない。

それは囲碁にしても同じです。


他人に嘘は付いても、自分には嘘を付かない

僕は、自分が小学生の時にやってこなかった事、やりたかった事を囲碁には求めていたのですが、囲碁は慈善事業ではなくビジネスとされていた事もあって、普通に育った普通の人や、普通に社会に馴染める人向けに最適化されていました。

だからこそ、他の業界と同様、昭和の爺さんを老害扱いして、自分達は被害者、改革者みたいな面をしてる日本人全体に失望し見切りをつけました。

僕に協力的な日本人もいるかもしれないけど、僕の求める基準には、到底、追いつけないから、巻き込まない方が良いのだろうなという事を、少しずつ理解していった。


ただ、過ちを正したい、やり直したいだけなんです、僕は。

ルールで全員が自分の権利を保障されているのだから、きちんと全員が状況に振り回されずに本音を言って、その上で妥協点を探りながら進めたい。

たとえ、今の自分の実力的に実現出来る事が限られてる、親ガチャでハズレを引いた人であっても、後になってから、「ああ打っていれば勝ってた。」みたいに後悔して周囲に喧嘩を売って欲しくない。

そんな事をされたら、その場にいる僕も被害を被るわけで、どうせ壊れるくらいなら、事前に相手に本音をきちんと言葉にさせて言質を取りつつ、都合の悪い部分は全部僕が被った方が合理的で僕にとっても得。


「世の中には、幾らでも楽しい事はあるんだし、過ぎた事はもう忘れて前を見ればいいじゃないか。」
みたいに思う人もいるとは思うんですけど、それってデリカシーが無さ過ぎませんか?

親しい人が事故で亡くなった人とかにも同じ事が言えるわけ?

報連相が大事、協調性が大事、子供は宝だというのであれば、この日本から学校というものが無くならない以上、しっかりとその二点を守り切れるような何かはインフラとして必要不可欠だというのが僕の論理です。

それこそ、僕は小姑並みに細かく報連相することになっても、それが嫌がられない、どんなに自分勝手だったり頭が悪かったりする人とでも普通にコミュニケーションが過不足なく成立してるように客観的にも見えるような環境を用意したかったわけで、その結果が、今の僕の囲碁のスタイルです。

僕は、対初心者、対アマトップやプロを想定した上で、どちらが相手でもいい勝負にする流れに持っていくにはどうしたらいいのかという事から詰めていき、そうやって試行錯誤を続けたところ、

『いっけん、軽い嘘手のように見えるのだけど、手順を追っていく内に、よくよく形を見てみると、いつも通りの見慣れた形が次々とあちこちで出来上がる。そこまでお膳立てされれば、自分の本音をはっきりさせるしかなく、結果がどうであれ受け入れやすく、成長にも繋がりやすい。』という碁形には出来たため、とりあえず、その時点で僕の目標は達成され、そうして、それを伝えるためにnoteを始めました。


で、それですんなりと今の囲碁界は変わり、日本も変わるのであれば、僕も満足し、それ以上は何もしてなかったかもしれないんですが、幸か不幸か、全然、上手くはいかなかった。

ただ、そうなるのも無理ないですよね。

インフラは確かに必要だし、今の社会にとっては絶対正義だったとしても、それを言うならば、医者とかだってそうだし、そういう社会的に一定以上の評価を既に受けてる人ですら、現状、色々と問題や葛藤は抱えてるはずなので、本気でやり直したいというのであれば、本気で囲碁普及をする事を考え無いといけない、つまりは、囲碁の社会的な役割というものを。

二年位前までの僕は、当時も口にしてはいたけど、別に囲碁普及がしたいわけでなかったんですよね。

一応、たまには、名目上、他の囲碁界の人と同様に囲碁普及について語ることはあっても自分事では無かった。

そんで、仕方なく、世界という大海原に飛び込んで、改めて囲碁の旅が始まったわけです。


他の切り口から囲碁の魅力?を伝えるに当たって、僕がnoteを始める前から目を付けていたたのが、囲碁の身体性です。

僕の碁のスタイルは、極限られた初心者でも見た事ある数パターンの形に誘導、何度でも相手に同じことをやり直しさせて、相手の意思を確認した上で僕の意思も伝えるというものですが、この動きが格闘ゲームに似てるように感じていたんですよね。

格闘技って、相手との心理戦以前に、自分の肉体という枷の中で可動できる範囲内における効率的な型を生み出すじゃないですか。

僕や僕を体現した僕の囲碁は、他人の形だけの意見というものにやたらと拘るがあまりに、ただでさえ不自由な囲碁というゲームで、自分で自分を縛ってる。

そして、人間が地球で自由に動けるのも、重力と引力の板挟みにあるからでもある。

人間は呼吸さえ続けていれば、最低限、生きていられるように、当たり前ですが、脳みそだって肉体ありきで働いている。

そう考えると、人間が力を発揮出来るのって、制約を誓約に神化させた時だし、たとえ、いつしか、呼吸すら必要としない完全生物が脳を使い術式を構築出来るようになったとしても、それも生物の進化の過程の一つでしかなく、個人の事を許すとか認めるとか関係なく、この宇宙全てとの繋がりを感じとれる気がするんですね。


そういう意味で、囲碁はそれをもっとも手軽に行える、人類の初めての共同作業の先鋒を切れるという事で日本の価値を高めるんでないのと適当な事を言ってみたり。

デタラメではあっても、一応の筋は通ってそうなので、誰かが囲碁普及する際、これに近いアプローチをするのはありかと思いますが、正直、僕はどうでもいい。

僕らしいアピール方法って、何があるかなあと考えると…


そこで目をつけたのが、『リズム感』です。

僕の碁は、無限に存在するはずの可能性を絞って、極単純な誰でも知ってる基本形に引きずり込むものであり、これって、子供向けアニメソングに印象が似てるのかなと思ったんですよね。

歌詞の意味が理解出来ないような年齢の子供って、うんこみたいな身近にあってイメージ出来るものだとか、大きな声で繰り返しシャウトするような歌を自然と口ずさんだりするものですが、まさにそれかなと。

というか、僕もそういうことを家ではしてたし。(デビルマンが好きだった。)

囲碁でそういう事を出来るのであれば、少なくとも僕みたいな子供を自然に引き込めるんじゃないのかって話ですね。


とはいえ、少子化は進んでおり、子供一人に対してかける時間とかも増えてるはずなので、ビジネスとして考えても競合する相手も多く、これだけだと囲碁普及する理由には足りないという意見もあると思う。

というか、子供いない人からすると、煩い子供が碁会所とかに来て欲しくないと内心では考える人もいるかもしれないし、そういう人にとっての利益も考慮せねばなりません。


そこで重要になってくるのが、前回も話した、『人間関係と社会関係の違い』ってやつですね。

家庭を守るために家庭を崩壊させてしまうみたいな事をついついしてしまう人が続出するのは何故なのか?

単に子供のために頑張ればいいというわけではないのであれば、他に何が必要なのか?(子供や部下がいない孤独な社会人とかにとっても無関係ではない。)

そこで肝になってくるのが、『想像力』ではないかなと。


よく言われる事で、「頭の悪い奴は相手の事情を考える余裕が無いから上手くいかず、普段からストレスを溜めがち。若い頃のヤンキーみたいに直に喧嘩して優しくない。」とされるように、目の前の相手や問題を自分と同じ人間に見えてないのがまずいんであって、そういう意味では、日常の全てが勉強ってことになるんだと思います。

だから、例えば、普段おとなしいオタクは喧嘩慣れしてないからやり過ぎて相手を殺してしまったり、人によって得手不得手、想像力が働くときとそうじゃない時がある。

自分の興味がある分野において、人間関係について学ぶのが良いと僕は言ってるんですね。

特に、相手と本音でぶつかりあうような事が普通に行われてるような分野が良い。


僕は囲碁でそれが出来ると期待して失望したからこそ、自分の碁だけでも実現しようとしたわけなんですが、別に、人間関係を学ぶ上で特別な才能とか頭の良さは必要ないとも考えてる。

重要なのは、きちんと現実を、つまりは、人間関係と社会関係を分ける事の難しさを理解した上で推し進める事であって、その点で考えるのであれば、やはり、普通に多くの人を巻き込むし結果を求められる事業とかが人間の成長に繋がるのは間違いありません。

ただ、そうはいっても、実際にそれが出来る社会人は多くないというのは、古今東西、どこの国でも変わらないみたいだし、僕みたいに、たかが娯楽の囲碁ですら、相手の本音を聞き出した上で完璧な進行を図ろうとして挫折しやすい人間もいる。

だからこそ、個人の自由が認められてる囲碁みたいなものでリズムに乗った術式を構築し、それを人間関係の構築という目的で、各種イベントだとかいろんな形で『儀式』として外に広げていく共同作業が、誰でも情報発信できるようになった今の時代には求められてると思うし、その過程がビジネスとなりお金なども発生する。
(囲碁で言うと、僕は自分の型に持ち込む直前くらいのタイミングでは、相手が何をしようとも強制的に僕の想定した流れに引きずり込もうとするけど、そこを過ぎれば、しばらくは緩やかに相手の手に合わせて、次の重要なタイミングを見計らって水面下で準備したりしてる。術式ありきでメリハリをつけることで、秩序を保ちつつ自由を保障できる。その自由な部分で相手の需要に応える。)


僕が見た感じ、術式を構築してる人自体は、それなりの数、いたとしても、優秀で寡黙な職人止まりとかで、そういう視点で活動してる人が少ない気がするため、僕がこんなことをしているし、僕ですらそれが出来る囲碁というゲームを普及する価値はあるんじゃないかと世の中に尋ねる価値はある気がします。(というか、プロの職人とかは、アマに僕みたいなのがいないからこそ、術式を構築して自分が世界征服をする事ばかり考えざるをえなくなってる部分もある。)

そういう事が当たり前になってこそ、本当の意味で子供と対等に接して成長を促せるはずだし、別に子供の事とかどうでもいいって人であっても、彼らに負けて恥をかかないために、そういう視点を持つ事は大事なのではないかなと。

『神様は乗り越えられる試練しか与えない。』というけど、今の社会の問題がそれで、『フィジカル・ギフテッド』が与えられずとも、『神様ギフテッド』は信じさえすれば、誰でも、手に入ると思うんですね。


以上が、僕が囲碁が日本に存在してもいいと考える、普及するに足る根拠になります。

が、何度か言ってるように、僕にとっては囲碁普及が最優先というわけでもないし、正しい仕事を通じて社会を変えたいみたいな願望が特別にあるわけではない。

そんなのあれば、こうはなってないし。

ここまで話してきた事は、僕が囲碁普及することになったとしても、それで誰かの害になる事は考えられないよっていう外部への保障であって、僕のやりたい事やメイン活動に関する本題は、こっからです。


無名の大魔族 ソリテール
七崩賢 黄金郷のマハト

確かにそうだ、マハト。
お前は共存を望んでいる時点で他の魔族達…バケモノとは違う。
その一点では敬意を表そう。
そして、だからこそ分かり合えない。
そんなやり方では人間は分からないんだ、マハト。
お前が共存を望めば望む程、お前の手で多くの人が殺される。
お前の願いの行き着く先は人類の絶滅だ。
そうなるまで待ってやれる程、人類は…私達はお人好しじゃない。
報いを受ける時が来たんだ、マハト。

全国の大きいお友達の推しの娘、元祖・綾波系ヒロイン


冒頭でも言ったように、僕は約束を守るのが苦手です。

それどころか、一般的な基準からすると、ルールをわざとぶち壊しにかかることすら、割とよくある。

ただ、僕は個人的にルールというもの自体に縛られたくないから、そんな事をしてるというよりは、その逆です。

子供の頃なんかは、どちらかというと、ルールを守る側、従わせる側だったので。

意味のないルールを守る事で、それ以外の別のルールというか、簡単な、軽い、個人同士の約束事を無数に蔑ろにするのであれば、それはルールが大事にされた社会とは言えないのではないか?

完璧なルールが無いのは当然としても、その中で、最善を尽くすべきなのは言うまでもないことですよね。

その最善を目指した結果、スタンスが人によって違うというだけの話で。


で、何で、僕がそういった事に特に拘るかというと、ちゃんとしたルールが整備されていないせいで目に見える不利益を被る事が多いからというよりは、それによって矛盾が生じ、人の心を惑わすことになるからという理由の方がずっと大きいです。

お金とかであれば、失ったとしても、稼ぐ手段は幾らでもあるから、誰かに助けてもらいさえすれば何とかなりそうなものですが、自分の人生に迷ったり、自分のやってる事に自信を失う人が増え続ければ大変な事になる、とりわけ、頑張ってる人程、そうなりやすい面があるからこそ、口煩くなってしまいがちというわけです。

世の中の数ある問題を解決するのであれば、まずはそっちから手をつけるのが正しい手順というものだろう、と。


実際、僕と同じことを感じてる人って、結構、いるんじゃないですか?

そうじゃなかったら、今のアニメや漫画とかで、『人間とは何かを知りたい』『私が死んでも代わりはいるもの』系の感情薄い系、サイコパス系キャラが味方サイド・敵サイドのどちらか、あるいは両方でメインを張る事は少ないはずなのに、そういう面が目立つことは、まま、ある。

現実でもそうかもしれないけど、サイコパス系のキャラは「さぁ、この私にあなた方の言う愛と言うものを見せて下さい。」とか言って悪行を図るけど、こんな事をしてしまう背景には、その人個人のコンプレックスとかもあるだろうけど、社会的な要因だってあるはずです。

誰だって、大なり小なりコンプレックスはあるのに、それが目立つ人とそうじゃない人で分かれるのは、社会と適応出来てるかどうかという要因が、結構、大きいと思う。

人付き合いを望んでいるかどうか、他人からの好意や理解を欲しているかどうかなどに関係無く、意思のある生物というのは、自分以外の存在から何かを言われたら、否応無く、なにがしかの反応を示すものです。

自分の中で噛み砕いて納得しないと気が済まず、なあなあにしておくと、後になってから、ぶり返す事になる。


ルールの話に戻ると、一昔前というのは、
「ルールを守らない悪党にも、何かしらの事情があるから配慮してあげないといけない。」
「こちらにも落ち度はある、つまりは、ルールを守れてなかった部分もあるから、ちゃんと歩み寄る努力をしよう。」
みたいな事を言われる事はあったんですが、これ、どちらにしても、特定のルールを守る前提で話していますよね?

なら、そのルールを死んでも守れない、理解出来ないサイコパスとかはどうなるんですか?

死ぬって言われ続けてるようなのでは?

そんな環境に居たら、どんな事をしてでも、自分の中で答えを出そうとする、つまりは正しさを求めたり、執着してしまい、普段はやらないようなバカな判断で身を滅ぼすことすらある。


その反動からか、今は多様性なり個人主義なりが進んでますが、それはそれで問題があります。

一つは、危機感が薄れてしまい、昔よりはトータルで見れば生きるのが楽になったとしても、巡り合わせが悪かった人などは取り返しがつかない事態に陥りやすい。

なら、仲間を作って助けてもらえばいいじゃないかと思われるかもしれないけど、それにしたって、悪影響はあります。


というのも、人から助けてもらいさえすれば、どんな事でも、いつからでも、直に解決できるとは限らないのは分かりますよね?

当然ながら、いざって時に助けてくれるような人というのは、そんな事になるよりも、かなり早い段階、それこそ、困ってる本人ですら自分が困ってる事に気づいてない時から助け船を出すものです。

で、それが、なかなか理解されないものだから、上手く行かない。

それどころか、助けようとしてた側が「気にしすぎ」だとか「ヒステリー」だとか言われる事すらあって、それが続くと「誰のためにやってると思ってるんだ!君が、謝るまで、殴るのを、止めない!」とかなる事すらあります。

とはいえ、他人にどう思われようと、寿命が千年超えてるような人でもない限り、人には戦うべき時というものがあるものだから、(人間関係で怒る事が出来ない)誰かの代わりに声を出さないといけなかったりする。

僕がサイコパス系のキャラに惹かれやすいのは、人間関係の問題について真剣に向き合うと、誰でも自然とそうなるからなんだと思います。
(今の社会の一番の犠牲者であり、参考材料。)


ともかく、社会で他者と共存しようとするのであれば、適切な形で約束する事を日頃から心がけねばなりません。

練習で出来ない事は本番でも出来ないし、なるべく、どんな状況でも使えるものが良い。

人類と魔族ですら共存させるには、どうしたらいいのか?



これはですね、以前から僕も碁で示してるように、ざっくり言えば『選択肢を絞る』、もっと言えば、『二者択一』で判断できるように物事を細かく分けて取り組むという制限を設けるのが、無理が無い方法ではないかなと僕は考えてます。

実際、その視点で見ていくと、僕らが日常的に受け入れてる事が腑に落ちたりする。


資本主義経済はお金という単一の基準で世を動かしており、リスクも相応に高いものの、たくさんの人に援助の手を渡らせる事に繋がっているし、持って生まれた資質や才能は重要だけど磨かなければ無力で、それが頑張ることの大切さを実感させることに繋がってる。

時間という主観的な概念ですら、そうで、人よりも寿命が多く残っていても、過ぎた事を後悔したりすることは珍しく無い一方で、その事が、老い先短い人とかにとって他人から良い影響を受けるきっかけになることがある。

意識的にしろ、無意識的にしろ、誰でも、そういう事をやってるものですが、経験則だけで何でもやろうとするのは、さすがに厳しく、瞬間的に目の前の事に対して発想の飛躍が出来る人というのは、人生、成功しやすいし、他人を前向きにする力も強いんだろうなと思います。

僕も囲碁では、そういう事を繰り返してるわけですし、初心者や子供に対する教育方法としては、そういう地道で地味な事を、誰もが続けていく事が何よりも大切とは僕も認めてます。


ただ、それはそれとして、どうしても絞りきれない時はどうしたらいいのかって疑問はあると思う。

しょせんは、精神論でしかないのかって。

うん、それはそうなんですが、そこは大した問題では無いんですよ。

大事なのは、それを自覚する事であって、僕が最初から言ってるのは、物事を無駄に複雑化しすぎて、本来は正解なんて存在しない人間関係の問題を理屈で考えようとしてしまうのが不幸の原因だということ。

自分の目の前にある問題が精神論でどうこうするものでしかない事が分かってさえいれば、それで妙案が思い浮かばないにしても、無駄に落ち込んだり責めたりしなくて済むでしょう?

それで、今から次に僕が提示するバカげた解決策、「その先の話」も冷静に受け止められる。

僕が普段、いい加減な事ばかり口にして、ルール破るのも、実は、その辺の手順を意識しての事です。

経験則と、外向きだから客観的に見える直観の範囲内でどうにかなってるのであれば万々歳だし、僕なんて必要とされない世の中こそが理想なんですが、ここまで読んでくれてるような人にとっては、ここからの事は必要となる話だと思う。

『強制二択』でゴリ押し出来ない時にする事、それは…

『ゴールの自由な設定』です。


はい、もはや二拓ですら無い、俺様がルールだ状態ですね。

「さすがに、それだと強引過ぎて社会に馴染めないんじゃないの?」と思われるかもしれませんが、僕から言わせると逆です。

『どこでもドア』が出来るなら、その辺の空き地とかを、臨時のゴールにしてしまえば良い。

それなら、他人と競争することも無いから、変に利害関係でぶつかったりしない。

人の気持ちに配慮が出来ない、勘が鈍いみたいな人であっても、明らかにこれは無いだろみたいな事であれば即座に判断出来るはずですし、そういう人は別に特技とかがあるはずなので、そっちを活かしてゴールを量産すればいい。

何度も言ってるように、僕は既に囲碁でそれをやってるわけです。


そもそも、相手の本音なんてものは、そうそう、分かるものでは無いというか、生み出すものです。

今までは好きだったものが、明日には特に(意識に上る)理由も無く嫌いになることもあるし、実際にやってみないことにははっきりしない。

だからこそ、皆、色んな手段で相手の反応とかを自分の脳内で決めつけて、その前提に立って物事を進めるわけで、失敗とかする度に後悔する。

だけど、それで自分が暗い顔してたからって、何も良いこと無いです。

言葉を介さない動物なんかの中には、飼い主が不安そうにしてると体調を崩すなんてこともあるみたいだし、人間だって、そういう部分はあるはず。



なので、ある程度の調査や準備をして相手に合わせるのも大事ですが、それ以上に重要なのは、それには限界があると頭では無く心で理解し受け入れる事です。

迷いが無ければ、考えが冴えて、その分、壮大な計画とかも立てられるようになる。(より柔軟なゴール設定が可能になる。)

僕が、対人戦の無いアークナイツでは頭を使って頭脳ゲームとして楽しむ一方、囲碁はほんの少しのパターンやルールだけを遵守して勘で打ってるというのも、その辺のメリハリをきちんとつけて、自分の心の中を整理するためです。

定期的に新しい手が思い浮かんで、それできちんとした碁形に出来た時、相手にも良い手本が示せたのではないか、楽しませる事が出来たのではないかと、少し、安心する。


ところが、変に真面目な人なんかだと、性格診断みたいに例外こそが大きな地雷ポイントだったりするものを頭で考えようとしすぎてしまう傾向にある。
(自分で勝手に世界に限界を作ってる人とそうじゃない人とでは、同じ機能を使っても使い方そのものが違ったりするのに。)

たとえ、可能な限り正確に勉強出来たとしても、人間が人間である以上、そういう事ばかりを普段からしてると、世界や人間そのものに対する根源的な不安みたいなものがじわじわと拡大していくはずだと僕は考えてるんですが、薬物やパチンコとかと同じで、不安だからこそ余計に頼ってしまうみたいな人が多いんだろうなと僕は勝手に想像しています。
(それで一時的に楽になった気になるから、自分に嘘をついてしまう。そうして、いつしか、それすらも出来なくなると、他人に対する配慮、優しい嘘もつけなくなる。他人に対する嘘は美徳かもしれないけど、自分を騙すのははっきりと悪です。)

あるいは、子供の時から、学校でも職場でも、そんな事ばかりしてきて、今更、一人で頭を使わないやり方とかイメージ出来ないから、アニメとか映画とか受動的に楽しめるものを消費して誤魔化すのかもしれませんが、それ、いつまで、続けられますか?

自分の子供が出来た時なんかに、その子が社会不適応者みたいな性格してたら、自分と過ごすだけで変な癖をつけさせてしまったりするのを心配し、愛情があるが故に、余計に苦しんだりする事になる。

それは友人関係とかも同じで、自分が理解出来る、コントロール出来る範囲内の人としか付き合う気がしなくて、長い目で見ると大きなマイナスになったりするかもしれない。


僕が予定してる有料の囲碁講座に囲碁をやらない人もお金を払って試して欲しいと言ってるのも、将来のために僕の事を都合よく利用して欲しいからです。

やりたいと思っているけど一人では出来ない事を僕をレンタルして一緒に試したりしてもらえるなら、僕としては本望というやつ。

勿論、勉強とかでも構いません。

僕が、ここ数年で変化したのも、色々と新しい事を考える内にそうなった面はあります。


偉そうな事を言ってはいますが、僕だって自分に自信が無かったし、他人が怖かった。

先の先の先の事まで、ついつい考えがちなもんだから、今の僕が誰かと付き合っても、将来、どうなるんだろうかと不安だった。

突然、友達がガンとかを告知され、自暴自棄になってる時に、僕は安心させてあげられるんだろうか?

そもそも、僕といて人生を浪費する事になるのでは?

とか、色々、考えると、雁字搦めで何にも出来なくなってくる。

でも、色んな人を観察したり、自分の考えを深めてる内に、今の社会や人に足りないものが見えてきて、「ああ、何だ、そんなことでいいのか。まだまだ、全然、発展の余地は残されてるというか、赤ん坊みたいなものじゃん。」と考えを改め、僕と僕と付き合う人の未来への道筋が見えた感じ。

僕の物の考え方や捉え方がしっくりきて、後はやるだけと言う人であれば、適当に僕をレンタルしてくれれば十分だし、僕の言ってる事は、今はさっぱりだし、このまま死ぬのは怖いみたいな人でも、そう言う人はそういう人で、他の人と余生を過ごすよりは僕に人生を捧げた方が幾らかマシな死に方が出来るんじゃないかと信じれるので、遠慮や罪悪感も無い分、誠実に付き合えるし。(ただ、少なくとも、僕の事は好きでいてもらわないと困るけど。)

人一倍、心配性な面もあった全方位警戒型の僕でも、こうなので、囲碁などを始め、今の自分のやってること一つ一つ改めていけば、誰でも必ず、人間や世界に希望を持てるようになるはずだと僕は信じています。

僕は、子供の頃から仕分けをやる癖があったのか知りませんが、なんか、その辺の整理が得意っぽい気がするので、何かしら思う事がある人は、僕のところに来てください。


おわり



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