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大理石の法悦



サモトラケのニケと、アポロンとダフネ、という作品が好きだ。

どちらも彫刻作品である。

ニケは頭と腕の欠損した、翼の生えた女神像。
後者は、クピドに射られたアポロンが恋に狂い、美少女のダフネを追いかけている像だ。ダフネは拒絶し、神である父に願いその身を月桂樹に変えた。柔和なダフネの指先から木の芽が硬く生える様が実に美しく映えている。



像の時間が止まってるのではなく、我々の生きる時間が彼らの瞬きよりも何万倍も早く過ぎ去っているだけなのかもしれない。そんな錯覚をする程に、石の肉体は生々しく、冷たい。




いつか読んだ文献の中に人が何故欠損した芸術品に魅せられるのか考察を述べたものがあった。
ミロのヴィーナス。
依れば筆者は、これに魅了される人々は欠損した箇所に想像を膨らませ、実像に重ねた理想の虚像を鑑賞しているのだと一つの考えを結論づけていた。

なるほど。

美術館を訪れ、像の前で、または画集を前に呼吸を忘れてぢっと見つめる。
少し固い紙に印刷された平面を、私は何度も指でなぞった。

美しく羽ばたく女体がかいなを失い、瑞々しい少女が物言わぬ大樹に変身する様が、全ての自由を奪われ尚見世物にされる物悲しさに胕の底は酷く魅惑的なサディズムで満たされていく。


命あるものが苦痛を味わい顔を顰めることに興味はない。ただ決して法には触れず、痛みもなく、誰も傷つかない無機物に極めて冷静で、既成の不自由に対する安堵と秘めたるマゾヒズムが揺れ動くのだ。


美しい。


理想的な身体を思い浮かべるでもなく、私は像に同情する。
もし像が生きているなら、いまどんな気持ち?と問いたいのだ。鼓動のせぬ彫刻が、自由を求めていたとしたら、それはどれほど過哀そうなことだろう。

自身を創り出した作者が没してから、何世紀とその呪縛は解けずにいる。大きな災いが起きない限りこれからも作品たちは丁寧に保存される筈だ。


生まれ変われたら再び柵の前に立ち、久しぶり、と声を掛け、私は次の人生でも かの彫刻たちに純粋で邪な感情を抱きたい。


愛しき神の権化の束縛を、なんどもなんども哀れな瞳で見つめ続けるのだ。

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