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禍福を糾いたく 。

今のつらいは明日の幸せだと信じて生きて、足場は砂。食べるものも砂。人の形をした砂の眼に見られ、ざらつき水気のない時間を過ごしておりました。
禍福は糾える縄の如し、という言葉通り、大きなワザワイは後にコウフクに転じると信じていたのです。


遠い目で見れば言葉の表す通りなのかもしれませんが、縄の節は拳より膨れあがり不格好に編まれていきます。
不揃いな縄に嫌気が差し、丁度節目に差したとき、まァ、なんと謂いますか、私は少し、編むことを辞めました。


季節はアッという間に一巡し、そして……何事もなくただ一巡したのです。
滅入った気も少し落ち着いた頃、
「貴方は、今日幸せを明日も続けなさい」
と云われたのです。

私は云われた通り、今日の小さな幸せを続けております。

誰かを想うこともありませんが、誰かに傷つけられることもありません。

幸せです。
以前よりもお金はなく、酒も飲まずいます。
酒に関しては最近善くなったものの、多忙極まり胃を傷め、齢二十にして医者から禁じられたという事情も有るのですが、一先ず、飲まずとも居られるのです。


柔い歳上の女性にただ髪を撫ぜられ、そっと抱きしめられたいという願望はあれど、それも別に心底欲して居はしません。


というのも、いま私は幸せなのです。


金も仕事も血の繋がらない愛しい人なども居ませんが、家族と暮らし、布団の中で文字を編み続けることに、芝居があることに、私は満たされています。



それ以上望むことはなく、それ以外に苦を強いてまで得たい対象などないのです。



ああ、幸せだ。
真新しい台本を開き、諳んじる。
穴の空いた傘を差して下駄を濡らす。
コンビニでココアを買う。
鼻歌を歌い、シャワーを浴びる。


幸せです。



然して、今日幸せを明日も続ける私個人が禍福を選別しようと関係なく、時間は過ぎてやがて綻んでしまうのです。収拾は付かずとも終結は余儀なく為されます。


永遠などないことなど誰しも解っており、
それを謳う作品にも多く携わってきたけれど、それでも他者の痛みが私自身の血肉を抉ることなどないのです。


終点で爆睡するサラリーマンを無視して電車を降りました。

彼が本来どの駅で降り、どんな部屋が彼の帰宅を待っているかなど、知る由もなければ知る必要もありません。彼も私を知り得ませんから。





今日の幸せを、私は明日も続けます。



月末に、母の実家であり、10代だった私を5年ほど預かってくれた祖父母の家に帰ります。


太平洋の濃紺の海が美しく広がっているのです。
きっとあの頃と変わらず町を潮の匂いが包み、しかし玄関では踵の潰れたローファーが埃を被って待っているのでしょう。


来月の私が、果たして同じように今日の幸せを噛んでいるのかだなんてことは、今日の私も、またこれを読む貴方にも知る術はありませんね

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