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正直就活でこんなに病むとは思わなかった


6月の下旬頃だったかと思う。

その日は一日中、家で朝からパソコンの前に座っていた。

大学に寄せられる求人票と、ナビサイトをサーフィンしながら、志望動機と自己PRというお馴染みの言葉に辟易としていた。


その日は一日中、意味も無く涙が出たり引っ込んだりしていた。涙の波は突然来るため、エントリーシートの進みも悪い。


6月中旬。

おおよその民間志望の就活生は、6月の頭ごろに長かった就職活動に別れを告げる。


私も4月頃までは、「まあ6月にはなんだかんだ終わるだろう」と思っていた。しかしその見立ては甘かった。


私の就職活動は少し複雑、というより今から考えると

「バカなのか?」

という活動だった。


6月、私は内定を2つ持っていた。

BtoCであり、かつ業界ではトップクラスの会社だった。

しかし、その業界は業界全体の勤務形態はややブラックであり、誰もやりたくないから、こんな私でも受かってしまった、と言う感じだ。


3年生だった私は、なぜか興味本位でそれらの会社のインターンに行き、それほど行く気も無かったのにインターンルートの早期選考に応募し、なぜか受かってしまった、ということである。企業からすればこれほど迷惑な話もない。


しかし、私の就職活動は主に出版系と大学系という狭いにもほどがあるほど狭き門に挑んでいた。


そして、これらの業界の選考は他よりも遅いものの、5月の下旬頃からはさすがに1次面接は終わり、結果が出始める頃であった。


それと同時に、私の寝る時間はどんどん遅くなった。特に、「お祈り」をもらった日はひどくて、3時過ぎまでベッドで眠れないまま夜を過ごすということも多かった。


よく「エントリーシート」の通過率は90%、とえばっている人がいるが、私もエントリーシートだけはよく通った。そして、その通ったエントリーシートの90%の企業や団体は、1次面接で落ちていた。


3月、4月の初め頃は、企業研究が足りていない、だから新聞などを通してもっと企業研究をしよう、5月頃になると、面接では結論から言おう、短くまとめよう、などと前向きに色々努力できていた。



しかし、面接ではどうしてもそれがうまくいかない。結果から言わなくてはいけないのに、なぜかどうでもいいような言葉が先に出てきて、自分も混乱する上、面接官までもが混乱してしまう。


そして、このような就活生にどのような烙印が押されるのかというと、


「コミュニケーション能力が無い」


相手にわかりやすく、自分のことさえ説明できないような人間はクズ同然、と言われるようなものである。


次第に自分という人間がいかにダメかが痛感できるようになってきていた。

結論から話すことができていても、全てロボットのような話し方になってしまう。

集団面接などで、オーソドックスな質問しかされない場合は、それで通ることもあった。

私は、1つの例や就活体験談などがあると、すべてそれ通りにやろうとしてしまう。それが唯一無二の方法で、最上なのだと、そうでないとわかっていてもそれしかできない。それしかできないと、変化球が投げられたときに対応できなくて、結局いつものダメな自分がでてきてしまう。



お祈りメールが来た夜は、そういったことが繰り返し自分の中でフラッシュバックした。涙がこらえられず泣いてしまう夜が何日も続いた。


6月上旬、多くの新聞で就活の様子が取り上げられる中、次第に「就活終わりムード」が漂ってくる。


5月下旬から、訳も分からず涙が出て、3時過ぎまで眠れない生活をしていた私のスケジュール帳は、ほとんど予定がなかった。


普通ならば、3次面接とか、最終面接とか、あと一歩で内定、という段階まできているはずだった。しかし、ほとんどが1次面接で落ちていたので、そのような予定もあるはずがない。



あらたに説明会の予定を入れながら、心の隅で

もう内定の出ているあまり興味の無い業界に行ってしまおうか・・・。と思っていた。


落とされ続けながら、正直希望していた業界も、なぜ自分がそこに行きたいのか、わけが分からなくなっていた。


私は自分で自分を苦しめていた。エントリーシートには、さほど思っていないことを、まるで本当に思っているかのように書いていた。私は思ってもいないことをぽんぽん書き並べるのは得意だったのだ。小学生の時の読書感想文も、中学生の時の修学旅行の思い出も、その手で書き並べ、先生に褒められてしまうことも多々あった。


エントリーシートの段階で落としてくれた会社は、きっと見破ってくれたのだろう。今となってはありがたいことだ。


そんな6月の中旬、私は自分の大好きなセカオワのライブに行っていた。本当は、就活で行けるか分からないから、直前まで行くか悩んでいたが、やはり行くことにしたのだ。


大学系の選考は主に土日に行われるため、選考にかぶりやしないかと心配で金曜のライブに行ったのに、前記の通り私の土日はさみしくも空いていた。そんななら、申し込めば良かったと、心が痛んだ。


彼らのライブは素晴らしいものだった。私が7年追い続けてきた彼らの姿は、遠い席であっても私の脳裏にきちんと焼き付いていた。



ライブが終わると同時に、我に返った。

私がもし、今の業界に就職を決めたら、おそらく私は来年、彼らのライブには来られない。


自分で指定した日に休める確率は低い。年間休日は、平均より少ない。大企業で、本部に行けば別だが、一生現場の場合、一生私はライブに行けなくなる可能性もなくはない。それが嫌だとしても、かなり転職しにくい業界である。



私は現実に引き戻された。この何年、ライブに行かずして一年を終えたことはなく、さらにそのライブレポートを書く、というのが楽しみであった自分の人生が、自分の軽い選択によって奪われるかもしれないのだ。


何をライブごときで、と思うかも知れないが、例えばペットが居る人なら、ペットともう暮らせない人生であるし、恋人が居る人なら、恋人とはもうおさらばということと同じである。



「それは絶対に無理だ・・・。」


せっかく、長くて辛くてどうしようもない就活とお別れができると思ったのに、、、



私は結局セカオワの埼玉公演が全日終わった後、職探しに戻った。


それが6月の下旬、冒頭に戻る。


就職活動1からやり直し、の状態に戻った。

そこから不屈のエネルギーが出ると思いきや、そんなことはない。就活やり直しがショックすぎて、涙が無意識に出る状態になってしまったのである。


パソコンに向かっては泣き、エントリーシートが進まず泣き、自分はどうしてこうもダメな人間なのかと思って泣き、気づいたら15時になっていた。

このまま家に居ても、病みが深まるだけだ。そう思い、自転車に乗り、特に行き先も決めないままゆっくりとこぎ出した。



人がいない道では、私は自転車をこぎながら、泣いていた。人とすれ違いそうになったらうつむき、居なくなったら泣いていた。


それは、歩行者よりも遅いスピードで、不安定な運転だった。自分に車の運転免許がなくてよかった。



通ったことのない道を進み、行ったことのない場所まで来ていた。

このまま道に迷って、家に帰れないまま、どこかでのたれ死にたい。

そう思っていた。保身のためにスマホは持っていたが、一度も見る気がしなかった。



適当に行った道の先に、某製薬会社の巨大な工場があった。

こんな場所にあるなんて、知らなかった。

それは、「白い巨塔」とも言うべきほど、広大な敷地で、歩いている社員の姿も見えなかった。


その向かいに、小さな町工場があった。社員のような人が、作業着姿で、物を運んでいる。車を動かしている。


私には、その姿が妙に胸に焼き付いた。道を進むと、そのような町工場が何件かあった。


大企業の営業所もあれば、町工場や作業現場で、車が行き交う場所もあった。


知らないうちに、何処か見たことのある道に戻っていた。

のたれ死んでもいいと考えていたのに、私が知らない道をさまよっていたのはたったの1時間程度であった。滑稽な話である。



家に戻り、スマホを開くと、不在着信が1件あった。

かけ直してみると、先日応募した出版社で、もう応募したことも忘れていたが、1次選考通過の連絡だった。


「失礼ですが、現在の就職活動の状況を伺ってもよろしいですか?」

遠慮がちな、ややしわがれた男性の声が言った。

私は、

「出版系を中心に受けていたんですが、全て落ちてしまって・・・。」

自分でも驚くほど冷静な回答だった。就職活動というのはそういうものだ。


「ごめんね、言いにくいことを言わせてしまって、次の選考は○日にあるから、お気を付けて来てくださいね」


そのようなやりとりがあって、「あ、いえ、そんな、大丈夫ですよ~」などと答えながら、電話を切った。


その瞬間に涙があふれ出た。


私はもうほとんど、企業の社員が大嫌いだった。奴らはみな敵である。

しかし、この出版社の社員さんの、私を気遣う言葉に涙が止まらなかった。


こんなクソみたいな自分を、励ましてくれる大人がいるんだ。

そう思えた時から、私の1日出たり引っ込んだりしていた涙は止まった。

私は次の選考に備えて、またパソコンを開いた。



この出版社には次の選考で落ちてしまったが、私はこの日、地獄のような日から救ってくれた社員さんの言葉を、いつまでも忘れることはないと思う。


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