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とある夏の記憶。

長崎生まれのお友達のはちさん( https://twitter.com/hachi_51 )が
2011年の 長崎原爆投下の日にお話しされてた話をまとめたものです。
あの震災のあとの喧騒のなかお話されていた内容をこのまま残しておきます。

インターネットの片隅にひっそりと掲載してもう8年経ったんですね。
未曾有の大災害と大事故の記憶も徐々に薄れようとし始めています。

ただ、忘れた頃にやってくるんですよね。災害も事故も。

一人ひとりがなにかできるわけではないですが、
「歴史年表の上ではなく、実際に生きていた人にこういうことがあった。」
それを知るだけでも、これからの未来をよくできるのではないでしょうか。

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私の実家は長崎市のお隣の長与町です。
当時生きていた親族は全員被爆者です。
あの日あの瞬間庭にいたばあちゃんは空を見上げて
「太陽が落ちてきた」と思ったそうです。

畑にいたひいばあちゃんは爆風の凄さに腰を抜かして歩けなくなりました。
爆心地から山を2つ程隔てたうちの地域でも
家々の窓ガラスは割れる程だったそうです。
普段は見えない長崎市、
山の木が爆風で倒された事により見えるようになったそうです。

長崎市は火の海だったそうです。

市内で働いていた親戚の叔父さん(ばあちゃんから見ての)が
市内から1番近い我が家に逃げて来ました。

工場で働いていた叔父さんは自分の部下の女学生さんを5人連れて。
うち1人は市内のあまりの惨状に気が触れて翌日亡くなりました。
残りの人達は翌々日までに叔父さんが家族を探して引き渡しました。

どの女学生さんも大きな怪我はなかったそうなのですが
その後、叔父さんの前にもばあちゃんの前にも姿を見せる事は
ありませんでした。

当時3日間もご飯の世話をしてあげるなんて相当なことなのに
誰1人礼を言いに来ないと言う事は、
原爆症で死んだんだろうとばあちゃんは言っています。

翌日ばあちゃんは行方不明のご近所さんを探すために市内に入りました。
そのために1番早い段階で被爆者の認定を受けました。
すると親戚からは一族に被爆者がいると恥だから
藉を抜いて出ていけと言われたそうです。
戦地からじいちゃんが戻らない中、辛い日々を送ったそうです。

結局ばあちゃんを差別した親戚たちも後々被爆者と認定されたわけですが。

その親戚達も私にとっては優しくていいじじばば達です。
放射能と言う見えない恐怖に
人の心が醜いものになっていく姿はなんとも悲しい事で、
今また同じ事が繰り返されているのがなんとも歯痒いです。

うちのばあちゃんは90過ぎるまでこまめに白髪を染めていました。
あの日焼け野原の市内で
爆風で飛ばされた白髪の老婆の首だけの姿が忘れられずに
白髪の老婆になった自分の姿を鏡で見る事が怖かったからだそうです。

何十年と経ってもあの日の恐怖は薄れる事はなかったようです。

戦時中の事をばあちゃんは「みじめだった」の一言で表しました。
悲しみ、恐怖、悔しさ、苦しみ。
そんな感情を全部ごちゃ混ぜにして「みじめ」と言いました。
二度と自分や自分の大切な人達があんなみじめな思いをする事の無いように少しだけあの戦争に関心を持ってもらえたらと思います。

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