「6」のこと

11月7日に『珈琲店タレーランの事件簿6 コーヒーカップいっぱいの愛』(宝島社文庫)が発売になる。3年ぶりのシリーズ最新巻だ。それをここ(note)で宣伝する気はない。どうせこんな文章を読んでいる方はほとんどいないのだから宣伝にはならない。

宝島社から6冊めの本が出る、ということが持つ、僕にとっての意義について書いておきたい。なぜならこれは、忘れたくない僕の足跡だからだ。先に断っておくが、おそらく僕はここから先、宝島社から怒られてしまうようなことを書く。けれど僕には、宝島社を貶める気持ちはこれっぽっちもない。むしろ宝島社には言葉では言い表せないほどの恩義を感じている。ただ、僕という人間のひとつの達成の歴史として、たとえ怒られてでも記しておきたいのである。

第10回『このミステリーがすごい!』大賞の隠し玉に選ばれ、デビューが決まったとき、僕は上京し、初めて宝島社に赴いた。そのとき、ある契約書にサインをした。

契約書というが、のちの経緯を見てもらえばわかるとおり、実際には法的拘束力のない形式的なものであった(という説明を受けた)(契約内容を明かすのは社会信条的にアウトだが、法的拘束力はないと明言されたので、8年経ってこれを明かすのはギリギリセーフだと解釈する)。出版社どころか会社という建物にすらまともに足を踏み入れたことがなく、ガチガチに緊張しきった(いまでも憶えているが、その日は朝からお腹が痛かった)僕の前に差し出されたその紙には、「優先出版契約書」という文字が記されていた。

簡単に言うと、「デビュー後しばらくはうちの出版社で優先的に本を書いてね」という内容だ。出版社にとって、新人作家育成はリスクの大きい仕事だ。それだけに、せっかく育て上げた新人作家をあっさり他社に引き抜かれてはたまったもんじゃないのだ。だから、(他社のことはまったく知らないものの)宝島社が特別だった、というわけではないらしい。

まだデビュー前で業界のことなど右も左もわからない僕だったが、その説明には納得できた。しかし、問題は冊数であった。目の前の契約書には、「6冊」という数字が記されていた。つまり、6冊出し終えるまでは他社から本を出せない、という意味だ。

右も左もわからない僕でも、直観的に思ったのだ。「え、6冊って多くない……?」と。

あとから聞いたことだが、どうも優先出版契約は3冊程度が一般的らしい。僕の直観は正しかった。いったんは躊躇したものの、デビューできるという夢のような機会を前に、誰がサインを断れるだろうか。結局、僕はその契約書にサインをした。

翌年の隠し玉デビューは僕を含む4名だった。4人の新人が、同日デビューを果たしたわけだ。ほかの方が優先出版契約にどう対処されたのかについては触れない。後続の作家がどうなったのかについても同様だ。ここでは単に、僕が結んだという事実だけを記すにとどめておく。(ただ少なくとも、宝島社が6冊の優先出版契約を提示したのはごく限られた回数だったらしい、ということは断っておいたほうがいいだろう)

優先出版契約については功罪なきにしもあらずとは思うものの、デビュー版元でしっかり面倒を見てもらうのはいいことなので、僕は間違っているとは思わない。いまにして思えば、だが、素直に宝島社からまず6冊出しておけばよかったな、と感じる部分もないではない。

その後の僕の活動を見ていただければわかるとおり、宝島社は寛容だった。僕は4冊を宝島社から刊行したのち、他社からも本を出し始めた。もちろん、きちんと筋は通した。これからも宝島社とお仕事をしたいという気持ちに変わりはないと伝えることで、宝島社から許しを得たわけだ。他社の本を刊行しつつも、デビューから5年目で宝島社の5冊めとなる本を上梓し、しかしそこで、宝島社からの刊行は途切れた。

それまでも忙しかった(僕はデビュー3年めに多忙のあまり体調を崩して2か月間休業している)が、その後の3年間も多忙を極めた。タレーランの5巻を出したのが2016年の11月、そこから6巻が出る2019年の11月までの丸3年間で、僕は8冊の新刊を上梓している。大したことないと思う向きもあるかもしれないが、僕は本格ミステリ作家を自認している。本格ミステリを主戦場としている作家の中では、じゅうぶん多作の部類に入るのではないかと思う。

はっきり言って、あの日々の中でタレーランの続編を執筆する余力は1ミリもなかった。それでもずっと、書かなければと思いはしていた。6冊のことも頭の片隅にあった。ようやく書ける状況になった経緯については、こことは別に言及する機会をいただいたので、そちらに譲ることにする。

こうして僕は、宝島社から6冊めの本を出せることになった。ここまで来るともはや有名無実化していた(開き直りはよくない。これは僕が悪い)とも言えるが、とうとう優先出版契約に刻まれていた「6」の数字を達成できたのだ。これは自分にとって、本当にめでたいことなのである。

同日デビューの作家さんたちが契約をどうされたのかについては触れないと記したが、参考までに、その4名の中で宝島社から6冊めの本を出したのは僕が初だと思う(認識違いでなければ)。ここまで来るのにデビューから7年以上、あの契約書にサインをした日からは8年以上もの歳月がかかってしまった。

本当に、よくがんばったと思うよ。こんなときくらい、自分を褒めてやりたいよ。そして、長らく契約に背いてきた僕に、ここまで辛抱強くお付き合いを続けてくださった宝島社には、心からお礼を申し上げたい。本当にありがとうございました。

などと書くと、これで宝島社からは卒業、みたいに読めるかもしれないが、もちろんそんなわけはない。新作の話はすでに浮上しているし、これからも宝島社が受け入れてくださる限り、ずっとお世話になる所存である。

ただ、これでようやく、肩の荷は下りたかなと思うのだ。もうとっくに新人ではないし、若手と呼べるかどうかもそろそろ怪しくなってきたけど、デビュー前からずっと連れ添ってきたそいつに、ようやく手を振って別れを告げることができたのだ。それはやっぱりひとつの卒業で、新たなステージに上がったということなのだろう。

小説で受けた恩は小説で返すしかない。これからも、宝島社でいい作品を書き、他社でも活躍して、このミス大賞の名を広く知らしめることが宝島社への恩返しになると思う。愚直にコツコツやっていこう。これまでそうやって歩んできた道筋が、「6」という数字になって、これからも僕を支えてくれる気がするから。

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