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12歳のころのような友達はもうできないのか?

近所のカフェで月末の請求対応をしていた。
請求書のフォーマットの一部を書き換えて、パートナー企業に送る作業だ。
前までは月初にばたつきながらやってたけど、今は月末にある程度済ませるようになった。

一通り作業を終えて、ストローを噛みながらシェイクをズズズと飲んでいたら、店内のBGMがそれまでのEDMから一転して、僕の大好きな映画のテーマソングに変わった。

映画「スタンド・バイ・ミー」を初めて観たのは、12歳くらいのころだったか。

仕事が走っているときほど自己の内側に入り込み、遠い記憶や忘れていた出来事を思い出すもので、12歳のころの夏休みの情景が次々と浮かんできたので、ここに書き留めてみる。

無敵だった12歳の夏休み

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12歳。
岐阜県飛騨地方の山奥、小学校最終学年をむかえた僕たちは、あいも変わらず無敵だった。

太っちょで真面目なW君、顔が濃くてゲームが得意なS君、近所に住んでるM君、少年野球で4番バッターだったN君、ボンバーマンが得意なK君、勉強が一番できたM君、のっぽでひょろっとしたT君。

小学校4年生までは13時に小学校のプールに集合するのが定番だったけど、プールじゃつまらなくなってしまった僕たちは、いつからか川に行って遊ぶことを覚えた。

半ズボンの下に海パンを仕込み、頭にはプールキャップをつけず、髪の毛の上にダイレクトにゴーグルをセット。
国道沿いに自転車を走らせること30分。トンネルの横の小道を抜けて、橋を渡って、ゴミ処理場の横に自転車をとめて下っていくと、僕らだけの秘密の遊び場があった。

橋の下の日陰のエリアに水泳道具セット兼荷物入れを置いて、飛んでくるアブを手ではらいながら、奥へ奥へと進む。

5分ほど歩くと、4,5メートルほどの巨大な岩と、ちょうど座って休めるような開けたエリアへとたどり着く。
ここが僕たちにとっての「いつもの場所」だった。

時々釣りをしているおじさんと鉢合わせることはあったけど、僕たち以外の子どもたちと会うことはほとんどなかったように思う。

この場所の魅力はなんと言っても「飛び込み」ができることだ。
川を泳いで渡って、向こう岸から斜面を登り、岩の上からジャンプをする。
そのシンプルな遊びに全員が熱狂した。

最初は岩の上から見た景色に足が震えたけど、数を重ねるごとに余裕が生まれ、飛び込めるようになった。
ジャンプするときのポーズや、飛び込み中に言う謎の言葉などを考えては、みんなで大笑いしていた。

個人的には川に飛び込んだ後、水中で目を開いた瞬間に、周囲を魚たちが泳いでいるのと、太陽が水面に反射してきらきらと輝いているのを見るのが好きだった。

川から上がると、自転車を漕いでT君の「行きつけ」だった駄菓子屋へと向かった。
棒アイスを食べながら、スラムダンクを読む。時々、奮発して200円のたこ焼きを食べる。
いつも30分くらいの滞在だったのに、数時間そこにいたような感覚があったのを覚えている。

駄菓子屋のあとは、だいたいT君の家に流れ込んだ。
T君の家は、駄菓子屋のある坂を10分ほど登った、給食センターの前にある。
5,6人で縦に並んで一生懸命自転車を立ち漕ぎし、ペダルの重さに唸り声をあげながら坂を登った。たどり着く頃には全員汗だくだった。

家につくと、気を利かせてT君のお母さんがポテトチップスと麦茶、練乳いちごのアイスキャンディーをいつも出してくれた。
玄関横の部屋で、007のシューティングゲームをみんなでやった。
飽きると、2階のT君の部屋で、浦安鉄筋家族を読んで、このシーンが面白いみたいな話を延々としていた。クレヨンしんちゃんのオカマの映画を観たりもした。

僕たちの住んでいた街は、夕方6時になると、街中のスピーカーから歌が流れるようになっていた。
それを合図に漫画を貸し合ってから、坂を下って一人また一人とぱらぱらと分かれて家に帰っていくのがいつもの流れだった。

この坂を下るときに、木々の間から見えるやけに赤色の夕焼けがとても眩しかったのをよく覚えている。

行きは汗だくで登った坂を、友達と風を切りながらペダルを漕いでいく。
それだけなのに、ただの帰り道なのに、どこへでも行けそうな不思議な高揚感と無敵感、世界が自分たちに向けて微笑んでいるような、きらきらした感覚がいつもそこにはあったような気がする。

16年前、そんな夏休みを僕たちは過ごしていた。

28歳の夏を東京で過ごしている

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東京に出てきて5年が経った。
新しい出会いにも恵まれ、住んでいる街にもそれなり愛着を持って暮らしている。

この頃、映画「スタンド・バイ・ミー」の原作者であるスティーブン・キングの作品をやけにたくさん観ている。
12歳のころ、少しだけ大人っぽかったT君が購読していた雑誌「SCREEN」を通じて初めて知った映画スタンド・バイ・ミー。

作品のラストにこんなセリフがある。

「I never had any friends later on like the ones I had when I was twelve.
 Jesus, does anyone?」

訳すると

「12歳の頃のような友達は、もう二度とできることはない」

という意味である。

思えば、あのころ、いつも一緒にいた友達とも随分離れたところで生活するようになってしまった。

太っちょで真面目なW君は、大学時代に出会った人と結婚して、地元で公務員になった。

顔が濃くてゲームが得意なS君は、相変わらずのインドア派で、スマホゲームに楽しそうに課金をしているらしい。

近所に住んでいて毎日一緒に通学していたM君は、消防士になって、持ち前の体力を武器に地元の夏祭りでは龍の神輿を担ぎまわったらしい。

少年野球で4番バッターだったN君は、大きな東京の銀行に入社して、辞めてからは、誰も連絡がとれなくなってしまった。

ボンバーマンが得意なK君は、中学時代はモテモテだったのに大学入学後から急にモテなくなり、ことごとくアタックをするも振られまくる日々を過ごして、今日もバイクに乗って愛知の風になっているようだ。

勉強が学年で一番できる割にギャグ漫画を愛していたM君は、着実に医者への道を歩んでいると友達づてに聞いた。そろそろデビューだろうか。

のっぽでひょろっとしたT君は、こないだ同級生の奥さんとの間に子どもが生まれたそうだ。背が高いから、彼のお姉さんの子どもからは「親戚の巨人」と裏で呼ばれているという話を聞いたときは腹を抱えて笑った。
T、本当におめでとう。

田舎の街だったから、保育園から高校までずっと一緒に過ごす人たちがほとんどだった。
教室や体育館、川やプール、友達の部屋でいつも一緒にいた僕らも、いつの間にかそれぞれの人生を生きるようになって、川の流れが分かれていくように交わったり離れたりを繰り返している。

人間関係を決定づける2つの要素

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少し話は変わるけど、マーケティングの仕事を今していて、ずっとファンでいてくれるお客さんと、そうでない人を決定づける要素はなんだろう?という話題になったことがある。

そして「思い出の深さ」と「接触頻度」が重要であるという話になった。

どれだけたくさん出会っても、一回一回の思い出が浅ければ記憶に残らない。反対に、とびっきりの思い出を作っても、その後連絡を取り合う機会がなければ、よほど出会うことはない。

こんなフレームワークに人間関係を当てはめてしまうようになった自分に辟易しつつも、現実的にはそういう見方もあるよな、とも思う。

そういった意味で、「12歳のころの友達」との思い出は、圧倒的な「深さ」を持っていると思う。
どんな合理的な人でも、懐かしい話をするときは心がゆるんでしまうもの。

日本でいうなら、中学に移って、それぞれの進路が少しづつ分かれていく前の最後の年齢。

性別や上下関係、育ちの良し悪しなど、大人になる中で生まれていく、社会の「ガワ」や「条件」みたいなしがらみにとらわれずに、限られた世界の中で無限の高揚感を覚え、描いていくことのできる年齢。

それが12歳であり、そんな時代を過ごした友達は、やはり特別な存在だと思う。それは故郷を離れて暮らす今でも同じだ。

きっとみんなも何気なくそうであるように、僕も12歳のころの僕とは別人でのはずだ。それなのに、年に1,2通、数十文字という超低頻度のやりとりによって、お互いを想い合うことができていると考えるとすごい話だ。

東京にいると、いろんな人に出会う。
僕は週に3回は渋谷にいるのだけど、あのスクランブルで行き交う、「景色」みたいな人たちにも家族があって、失ったものや、日々のちょっとした喜びや、なんでもない秘密みたいなものがあると考えると、世界の壮大さにさらりと触れてしまって、思考停止してしまう。

季節の変わり目になると、離れていった人たちのことを考えたりもする。

出会い方はとびきりインパクトがあったのに、その後出会うことがなかった人。なんとなく出会って、なんとなく仲良くなったけど、いつの間にかSNSから姿を消していて連絡がつかなくなった人。毎日会ってて、それなりに深い関係を築いていたつもりだったけど、連絡をとる口実を失ってしまった人。

インスタントにつながって、インスタントに離れることができる時代だな、と思う。
12歳のころの友達は、今の僕を見てどう思うのだろうか。
12歳のころの自分は、今の僕を見てどう思うのだろうか。

彼らに恥じないように、できるだけ人間関係を消耗品のようにする生き方は避けていきたいと思う。
顔が浮かぶ人たちには声をかけ続けていきたいし、忘れていたけど思い出した、懐かしい人たちには思い切って数十文字の言葉を送れる自分でありたい。

12歳のころのような友達はもうできないのか?

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「12歳のころのような友達はもうできないのか?」というタイトルで記事を書き始めたけど、結局そこに触れぬままここまで書いてきてしまった。

結論、「わからない」のだけど、今でも一番夢に出てくるのは、彼らと一緒に過ごしたなんでもない夏休みのことだったりする。

夢の中で何度も川に飛び込みをするし、ホームセンターの横を自転車でくだる風景の中に、気づいたらいる。

きっと、50歳になっても80歳になっても僕はこの夢を見続けるのだろう。

たとえ友達がいなくなってしまっても、まるでさっきまで隣にいたような感覚を持って、目を覚まして、その日を過ごすのだろう。

年を重ねるごとに、夢と現実の境目があいまいになってきて、あれは夢だったか、いつかの出来事だったか、わからなくなることが増えた。
夏が短くなることに、蝉の鳴き声が少しずつ消えていくことに鈍感になったのはいつからだろうか。

だらだら懐かしいこと、少しさみしいことばかり考えてきたけど、そこに浸っていてばかりではだめだとも思う。

あの頃なんとなくいつも一緒にいた友達との時間、「永遠の瞬間」とも言えるようないくつものシーンをつまみに、その先の未来を生きる自分として、新しい思い出をつくっていくことも一生懸命やっていかなきゃな。

12歳のころのような無敵感はなくなってしまったけど、その代わりいくつか手にしたものもあったりする。

僕はひょうひょうとした人間だからきっとどこかで、「令和最初の夏、あの頃僕は28歳で、いつも一緒にいたやつらは最高だったんだ」みたいなことをどうせ言っているのだろう。

未来同様、夏の記憶なんてものはあいまいで、ゆらめいていても許される気がする。
あの夏もこの夏も、それはそれでよかった、暑かったねって言える夏を来年も過ごしたい。
それまでみんな、どうか元気でやっていてください。

さよなら、2019年の夏よ、また思い出すときまで。

いつかの「あの夏」に、乾杯。


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