見出し画像

本当にほしいのは「答え」じゃなくて「あなたの意見」なんだ という話

先日、僕の友達の中でも相当にかっこいい、イケてる世界で生きている大先輩からこんな連絡をもらった。

簡単に言うと「今後のキャリアで悩んでいるから相談乗っとくれ」という話。

その人の周りには常にキレキレの外資系コンサルっぽい人や、アーティな世界で羽ばたく人、政治家っぽい人とかが常にいて、「なんでワシやねん…身分不相応すぎるンゴ…」ってな具合に腰が引けたけど、自分なりに力になりたいと思ったので、話をしにいってみた。

カフェで油淋鶏プレートを食べながら一通り話をした後、おそるおそる聞いてみた。


ワシ「なんで先輩の周りにはイケてる経営者やアーティスト、一流の世界で輝かしい実績を残している人たちがいるのに、僕みたいな”一般人極まれり”みたいな人間に相談したんですか?」

先輩「変なことを聞くね。答えはもちろん、君が僕にとって信頼のできる後輩で、人生の大事な選択をする上で確実にヒントをくれる人間だと思ったからだよ。」

ワシ「でも、答えを求めるなら、周囲のエラい投資家とかキャリアアドバイザーとか人生2周目っぽい人とか、そういう人に聞いたほうが手っ取り早くないですか?
僕みたいなちんちくりんよりずっと有益で理にかなったアドバイスをくれるんじゃないかと思います。」

先輩「うーん、それも一理あるんだけど、それって前提として「答えがある」テーマだったら成り立つ話だと思うんだよね。

年を重ねるごとに色んな物事に対してわかりやすい答えを出すのが難しくなってきた。特に人生に大きく関わるような選択はね。

だからこそ、わかりやすい「正解らしい答え」を伝えてくる人よりも、「自分なりに考えたヒント」を僕の目を見て一生懸命伝えてくれる、信頼できる人の声を聞くほうが何百倍も価値があるし、自分の背中を押してくれると思って、声をかけたんだよ。」

この話を受けて、昔似たようなシチュエーションがあったことを思い出した。

僕は学生時代に海外旅行によく行くのだけど、その度に姉に「撮ってきた写真を送ってくれ」と言われていた。

自分で撮った写真というのは、やたらブレてたり、逆光だったり、画質的にも微妙だったり、見せること自体がはばかられるものがほとんど。

だから、「ググれば綺麗な写真たくさん出てくるやん」とか「めんどい」とか言って、姉に写真を送るのを避けてきた。
会う度に何かと「写真はよ」的なことを、言ってきたけど、何かにつけてひらりひらりと送らずにこれまでやってきた。

先輩の話を受けて思い返してもみると、おそらく姉は海外の写真がほしかったのではなく、僕が旅の中で見てきた風景を僕なりの視点で記録したものを見せて、伝えてほしかったのだろうなぁと思う。

こういった文章しかり写真しかりリアルでのコミュニケーションしかり、何かを発信するということは、得てして恥ずかしいことであり、不安が伴うものだ。

僕はそういった不安やわずらわしさにかこつけて、本当は相手と向き合うのが怖かったのだろうなぁと思う。

覚悟が持てなかったせいで向き合うことを避け、物事をナアナアにし、傷つけてしまった人がいたら申し訳なかったなぁと思わずにはいられなかった。

それでも、先輩が喜んでくれて、こういった形で自分の情けない過去を省みることができたのは、自分なりに先輩と向き合うことを選んだからだったと思う。

その人のことを本気で想うなら、自信がなくても、恥ずかしくても、相手のために答えになりそうなヒントを必死で探すことから逃げちゃいけない。

最後に答えを出すのは相手であり、自分ができるのは相手が気持ちよく答えを出せるようにするためのヒントをかき集めることだけ。

そんなことを考えながら、コンビニで少しエッチな表紙の少年ジャンプを買って、駅前のカフェでこの文章を打っている。

帰ったら姉にハンガリーで撮った写真を送ろうと思う。

https://twitter.com/OKB460

ちょっとエッチなツイッターはこちらです


サポートをいただけましたら、そのお金で気持ち泡多めのビールとか飲みにいきませんか……!