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「何者であるか」より「何が好きか」で繋がれることの尊さについて


人と人との繋がり方の話をする。

社会人になってからいつの間にか5年が経った。
あの頃はただの画像加工用アプリだったインスタグラムは立派なコミュニケーションインフラと化し、かつてmixiの掲示板だったWeb上のコミュニティはある領域に特化したオンラインサロンが主流となりつつある。

思えば「コミュニケーション」とか「コミュニティ」みたいな「コミュコミュ」した言葉が急速に浸透したのもここ5年くらいの話じゃないだろうか。

僕自身、ビジネスでもプライベートでもそういった趣味や嗜好性が合った人たちとのコミュニティに身を置く機会が増えた。

リアル、オンライン問わずそういった“ハコ”の中に身をおいていると、この頃常々感じるのが「何者かであらなくてはいけない空気」だ。

「何者かであらなくてはならない空気」について

つまるところ、何かしらのわかりやすい肩書きをこしらえて、それを名刺代わりに人とコミュニケーションをとらなければいけない空気だ。

例えて言うならこんな感じ。

なんでもかんでもワンピースで例えるのは平成3年生まれのクセである。
それにしてもTwitterで名前に「名前@◯◯」というフォーマットの人が増えた。そこに良し悪しはないけど、一周回って00年代の2chのコテハンみたいだとは思っている。

個人の時代だー!フリーランスになれー!脱社畜しろー!みたいに声の大きい人間が煽り、SNS上でのそれっぽく見えるブランディングのためにそれっぽい肩書きをこしらえて、自分の“ガワ”を形成する。
時に、ひと握りの虚飾と見栄をまじえて。

面識のない人間とつながるためにはSNS上でキャラクターを立たせることは大事だし、ビジネスに繋げたい気持ちがあるなら尚更。

とはいえ、ここ1,2年で急速にそういった「何者か」であるような盛った見せ方をする人が増えたことは、どちらかというとアンダーグラウンドっぽいインターネットが好きな人間としてはちょっと動揺している。

そういったガワベースな人たちのコミュニケーションを見ていると、やたらと学生団体の代表やサークルの代表、バイトリーダーをやっていたとアピールする就活生みたいだなと思ってしまう。それこそ、朝井リョウさんの作品、「何者」みたいに。
(誤解のないように言うと、所属を明らかにしたり透明性を出すのはわかるけど、現実以上に盛った見せ方をするのはどうなんや?という話です)

僕は自己肯定感が強い人間ではないので、リアルでもWeb上でも「何者かである」人たちにうっかり紛れ込んでしまった時、「何者でもない自分」がやけにみじめな人間に思えてしまうことがある。

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新卒時代、ひょんなことからマッサージ屋さんで働いてた僕は、大手企業や何かしらのイケてる新規事業をやっている先輩や友達と会うのが割と苦手だった。異業種交流会とかでもいつも隅っこにいた。

マッサージの仕事というのは、何かと誤解をもたれやすい職業。「それって大丈夫な仕事なん?」「エロいマッサージなん?」と聞かれた回数は3桁で収まるのだろうか。
自分の仕事に誇りは持ってたけど、きらびやかな世界、いい感じの“ガワ”を持った人たちに囲まれて仕事の話をすると、なんとなくヒリヒリとした後ろめたさ、心苦しさがあったのを今でもよく覚えている。

結果的にファーストキャリアがマッサージ屋さんというキャッチーさを武器にして今は楽しくやっているけど、何者かでないと居づらい、資本主義っぽい、優劣&静かなるマウンティングが生まれがちな空間というのは相変わらず苦手だったりする。 みんないったい誰と戦っているんだ、と思う。

育ちの良さや年収、生まれた地域、学歴などなど、そういう“わかりやすい指標”もいいけども、それだけで判断できるほど人間って簡単じゃない。
何かを判断する時の主語はいつだって自分でしょ。

時間も心理的ゆとりもない現代社会において、そういう誰かが作った指標で人を測る傾向があるのは仕方ないのかもしれないけど、それってすげえ悲しいことだ。偽っても、どこかでほつれが出る。

何をしているかより、どう在るか。
無理に誰かにならなくても、あなたは他の誰でもないあなただ。

「好き」をベースにしたコミュニケーションの尊さ

話は少し変わって、最近、よく行くお店がある。
人生で「行きつけ」と呼べるお店なんてほとんどなかったけど、ここは僕にとっての大事な「行きつけ」であり、貴重な「居場所」だ。

学芸大学駅にある「Snackbar Flat」という、ちょっと変わったコミュニティスナックだ。
学芸大学にある「花たこ」という長く愛されてきたたこ焼き屋さんのおばあちゃんと、箕浦さんというお兄さんが出会ったことで始まったお店だ。
↓お店については詳しくはこちらを見てほしい。

ここは、毎週1,2回くらい夜な夜なお店を開いて、友達が友達を呼んで、たこ焼きをつまみにみんなでテーブルを囲んでお酒を飲む場所。

ここの魅力は色々あるけど、何より素敵だと思うのが、「ひとりぼっちが生まれない空間である」という点だ。

ここに集まる人たちは多くの場合、はじめましての人に対して「◯◯さんは何が好きな人なの?」という、問いかけをする。(みんな絶対意識してないと思うけど)
異業種交流会のような「◯◯さんはどんな職業で何をやっている人なの?」というガワを尋ねるスタイルとは気色が異なる。

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肩書きありきのコミュニケーションであれば、何かしらの心理的抵抗や言いづらいことが生まれがちだけど、好きなものベースであれば誰でも何かしらの会話を楽しめる。
しかも、パーソナリティがいい感じに表れて、会話も盛り上がる。はやりの言葉で言うと、心理的安全性が保たれる。

仕事の話もする時はめっちゃするし、なんなら自分の好きなものについての会話をきっかけに仕事につながるケースなんかも、結果的に割とある。

テーブルを囲むことで、一人ひとりの顔もよく見えるし、同じ皿のたこ焼きをつつき合うことで、なおさら親近感が湧く。何十人も入れる広さはないけど、みんなのことがきちんと記憶に残る。
なんでもないように思える自分も「ここにいていいんだ」と思える。

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Flatはメニューはたこ焼きだけだし、ダーツやDJみたいなわかりやすいコンテンツを用意しているわけではないけど、新しい人がどんどん集まっている。おかげさまでたくさんの気のいい友達ができた。

これができているのは、店主の箕浦さんとお手伝いの三浦くん、常連の西川さんすなばくんといった、いつもいるメンバーの人間力なのかなと思う。

相手と深く関係性を築くための教養の話

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↑めっちゃドヤ顔のいつものみなさん

Flatに集まる人は、教養がある人が多いと思う。

教養とは、(誰であっても)相手に対して興味を持って仲良くなる力だと思っている。

相手に無理をさせず、気持ち良い距離感でお互いの人となりをすり合わせて、また会いたいと思ってもらう力。
これが結果的に、その場にいる一人ひとりが主役となり、ひとりぼっちの人を生み出さない結果につながっているような気がする。

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「好き」をベースにしたコミュニケーションを実現するためには、広く深い知識と知恵が必要だ。
多少わかりにくい話でもそれをコクとして、いい感じに料理して素敵なツマミにする。誰であっても主人公にする人が集まっている。

行きつけだからもちろん、存分に贔屓目はあると思うけど、本当にそんな場所だと思っている。

規模は大きくないかもしれないけど、派手な大義名分やルールはなくても、自然と「ヘルシーに人がつながる場所」になっているのに毎度感動する。
だから、みんな一度来てみてほしい。

運営の人間じゃないのに「行ってみてほしい」ではなく、「来てみてほしい」って言ってしまった。
いつまでお店に行きつけられるかはわからないけど、そんな場所にいつもいられる今を、とても尊く思う。

さいごに

書いているうちに盛り上がってしまって尖った言い方をしてしまったところもあるかもしれないけど、言いたいことは以下です。

自分はどうやっても自分、無理して誰かにならなくてもいい。
自分が自分のままで過ごせる居場所は最高。
そんな居場所の実現には好きをベースにしたコミュニケーションが有効。
そんなコミュニケーションを取るためには教養がいる。

みたいな内容でした。

わかりやすいものとか、効率性によって大事なものを失ってしまうことってあるかなと思って。そういった「悲しみの取りこぼし」みたいなものを減らすためにも、きちんと人と会って、教養を身に着けていこうと思います。

ひとりぼっちにならないために、ひとりぼっちを作らないために。

今回の記事を書きながら聴いてた曲×2



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