無駄(−)と無駄(+)

日本への一ヶ月間の一時帰国が終わり、スペインへの旅行も、(色々あったことは否めないが)まあなんとか無事終わり、ここポルトの地へ戻ってきた。この街は何も変わらない。海、波、風、人、安い食べ物、パラパラなお米、etc。八月が終わろうというところ、はて、自分という人物はどんな感じだろうか、何か変化はあったのだろうか。

今日から大学が動き始めている、ということで学校事務所も動き始めた。僕はAcceptance letterという大事な書類をなくしてしまった。これがなければ図書館で本が借りられないということで、僕にとっては重大なことである。今日は自分がこのポルトにある大学の学生であることを証明する書類を発行してもらいにきた。僕の前には10人ほどいて、自分の番まで待たねばならない。

「無駄な時間」だと思った。この待ってる時間に、何かできるやん。そう思った。

でも同時に、もう一つの考えが頭をよぎった。

そういう自分は、今日までどれくらい無駄な時間を過ごしてきたのだろうか。

僕がここでいう「無駄な時間」は、マイナスな意味での「無駄」である。それは例えば、必要以上のYouTubeだったり、いきすぎた昼寝であったり。ちょうど今日も朝の時間に、必要以上にゆっくりしてしまったので、それも含まれる。あとは、わかりもしないこととに頭を使っては不安に思っていた時間であったり、そのせいで無気力になって何もできなかった時間だったり。もう、数えたくもない。

そんな『無駄(–)』をたくさん過ごしてきた自分が、何かの待ち時間に対してそれを「無駄」だという権利はないと思った。なんなら、自分の時間の使い方そのものが無駄だからだ。ここは僕の反省点なので、肝に銘じなくてはならない。

そんな僕だが、今日は素敵なことに『無駄(+)』との出会いがあった。その名の通り、プラスの意味での「無駄」である。きっかけは「人生かっぽ–佐藤大地ブログ」の7月30日の記事だった。

「無駄さ」は「豊かさ」だ。

この言葉に、とても惹かれた。

確かに、仕事なり勉強なり、その時一生懸命にやることはちゃんとその人の身になるし、役にたつかもしれない。でも、「個人」として考えた時、その仕事や勉強だけでは周りとほぼ同じことをやっているわけで、その人自身にオリジナリティーというものは生まれてこない。そう考えると、無駄(+)というのは、その各々にオリジナリティーを与えるものなのかもしれない。その無駄が、これからの仕事や学びに繋がるかもしれないし、繋がらないかもしれないし、でもやってみることによってその人の、人としての「幅」というか「深み」というか、そういったものは広がっていくのだろう。

そこで改めて思う。何もしないのは、最悪だ。何もしなければ、何も変わらない。変わらないのは、人間と言えようか?

僕もこのnoteでまた無駄(+)を生み出していこう。下手くそは、下手くそなりに。無駄(+)とわかっているから、なんだか書きやすい気持ちになってきた。


あと半年もない留学生活、なんぼでも無駄(+)を作って、もがいてやる。


2019.8.26
おけいこさん

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