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温泉の未来予想図Ⅱ

何かを汚いという感覚について、人々はこれからより敏感になるだろう。そのことについては、前回の記事で触れた。新型コロナウイルス を機に、”清潔”ということへの関心はより高まる。

そんなことを考えると、どうしてもそのことばかりを考えてしまう。

”汚い”とは、なんなのか。

***

その言葉から最初に連想されたのは、土だった。

土。

ご飯をみんなで食べる時、ある人が体中に土をつけてきたとしよう。彼は汚いといえるだろうか。

多くの人が”汚い”と答えるだろう。
それはなぜか。
おそらくご飯を食べるというその環境が、その感覚を強めているように思える。食べるという行為を通じて体の中に栄養を取り入れることが食事の場で、その場を清潔に保ちたい気持ちはよくわかる。誰も、よくわからない変なものを体内には入れたくはない。土が間違って混じったとしたら、ジャリジャリしてそのおかずも美味しくは感じられないだろう。

要するに、”異物”という感覚である。
何かかしらの病原菌が体に入ってきた時に体が反応するように、目の前の世界でも僕たちはそのような反応をする。ご飯にチョコレートをかけられたら、僕はそのチョコレートを異物として認識するだろう。水の入ったペットボトルにひじきを入れられたら、僕は飲む気が失せるだろう。

しかし、その土が異物とは認識されないパターンもある。
農園に行けば、土は僕たちの仲間だ。僕たちが生きていく上で欠かせない野菜を育てるために、土は必要不可欠だ。いい土のためによく耕すし、赤子を育てるようにいろいろと手間暇かけるし、香ったり、触ったり。食事の場では絶対に触られなかったであろう土が、農園に行けば全く異なる立場になる。極端な例ではあるが、そんなものだ。

結局のところ、”汚い”というのは僕たちの嫌悪感からきている。

なんとなく汚らしい。なんとなく嫌だ。なんとなく触れたくない。それらは数値化できないただの僕ら人間の感覚でしかなく、故に明確な線引きはほぼ不可能だ。つまるところ人によりけりで、その人が汚いと思えば汚い。

だから温泉の”原動力になる”という正の面と、”汚い”という負の面が対立するように思えるが、それらを単純に比べたところで無駄である。正の魅力が負を勝ればいいという、そのような話ではない。その人にとってある一定の負の基準を超えた時、その人は温泉にはいかなくなる。

だからコロナ後の世界でもし温泉が嫌いな人が増えたとしたら、温泉側はただただ清潔の基準を上げて営業するしかない。

まあ、あくまでも妄想の話だが。

***

そんなことを考えると、イギリスの哲学者であるD・ヒュームの言葉を思い出す。

『理性は感情の奴隷だ』

清潔にまつわる行動も、その通りなのだと思う。結局のところ僕たちが清潔にするのは、嫌悪感という感覚だ。
なんとなく汚いから、嫌になって、綺麗にする。なんとなく汚らわしくて、嫌だから、温泉にはいかない。

頭で考えて行動しているようで、実は根本には感情がある。


だからどうってことはない。それは必要なことだ。


理性と感情が対立されることがしばしばあるが、その際に僕たちは理性的に行動することを望む。なぜなら、その頭で考えて理性的に行動することが、人間を人間たらしめることのように思えるからだ。確かにそのような面はあるのかもしれない。

でも感情や感覚を元に動くことだって必要である。

現に、その感覚で清潔という行動を身につけつつある僕たちは、ウイルスを戦っている。戦う上で必要な感覚であり、放棄は不可能だ。


感覚的に理性を働かせているのか

はたまた

理性的に感覚を利用しているのか。


これらもまた温泉好きの妄想の、一部である。
温泉好きは、温泉でそんなことを考える。

人間を一番知らないのは、どうやら人間のようだ。

2020.4.13
おけいこさん

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