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会わない違和感

何かを書こうとすると、文句というか意見というか、誰それへ申したいことが出てきそうになる。

それは例えば、SNS上でみた彼もしくは彼女の投稿について自分で思ったことだったりする。でも、それをわざわざその投稿にコメントをしようとも思わない。わざわざいわゆる「個チャ」なるものまで経由して直接言おうという気にはならない。

野暮なのだ。

SNS上で起きる議論に首をつっこむほどくだらないことはない。
一生懸命に自分の意見をコメントで書こうとしている自分が、惨めに思えてくる。

僕はどうして画面に一生懸命になろうとしているのか。

そんなことを思う反面、自らの意見を正々堂々とSNS上で言えない自分もまた、
惨めに思えたりする。

そうなってしまえば如何しようも無い。キリがない。

***

本来であれば、そのような議論的なことは大学の日常で友人とできたはずなのだ。

ちょっとした休憩時間。授業の帰り道。ご飯会や飲み会の時。そこら辺の芝生。

たまたまそこらへんで会って「そういえば」から、相手のSNS等での投稿の真意を聞けたりする。その”真意”なるものはやはり文面だけからでは伝わりづらかったりする。そんな経験はいくらでもある。僕は真意を文面で伝えきれずに、大切な人を傷つけてしまったことだってある。だからSNSで議論が文字で起こることには少し抵抗感がある。

殺伐として、暗くて、冷たくて。

絵文字を使えどその抵抗感を拭うことは難しい。

オンライン授業も始まりはしたが、やはりどこか物足りない。
僕がやはり気がかりなのは、先生と一度も直接会わずして学期が終わっていくということだ。ほんとうにそれでいいのだろうかと、そう思えて仕方がない。

この不思議な感覚を表現するには、僕の言葉がまだ足りない。

言わないだけで、本当はみんな心のどこかで思っているのではないだろうか。


人に会うといことがいかに大事か。


2020.5.8
おけいこさん

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