東京大空襲xx

私にとって昭和は昨日…戦争はついこのあいだ…

東京都中央区日本橋浜町2丁目の都電停留所の前に、母の実家の佃煮屋「鮒正」がありました。父は出征していたので、祖父母・母・妹(2歳)・私の5人暮らし。

昭和20年3月9日 焼夷弾が雨のように降り、2階のもの干し場が崩れてきたとき、病気で寝たきりの祖父は起き上がり胡坐をかき腕組をして毅然といいました「俺はここで死ぬ!お前たちは逃げろ!」

火に追われて逃げた橋の上で立ち往生、川の両岸は火の海。舟が転覆し油に火がつき川も燃えていました。夜があけた頃にはなにもかもが灰に。炊き出しを求めて死体を跨ぎながら行った近くの浜町小学校は焼死体の山。カラカラに干上がった用水桶の中で近所のオバサンが手を合わせて亡くなっていた。少し離れた有馬小学校で食べ物を配っていたので並びました。私の目の前に、母親に背負われた赤ちゃんの真っ黒こげの2本の足がぶら下っていました。そこで乾パンと金平糖を少し貰って、あてどもなく街を彷徨ったとき、死体を山のように積んだ軍のトラック数台とすれ違った。微かなつてを頼って茨城まで行くともう日が暮れてきて知人はみつからず、灯りを見つけては戸を叩き「一晩泊めていただけませんか?」と母は懇願。「納屋でも馬小屋でも牛小屋でもかまいませんので…一晩…」。みんな首を横に振りました。夜通し歩いてうっすらと明るくなってきたとき紫色の美しい山が目の前に!母が「筑波山…」とつぶやきました。

倒れかけて丸太でつっかえ棒をした小屋をみつけて住み、それから半年足らずの間に敗戦。戦争が終わりました。昭和20年8月15日、母は筑波山を見たときと同じように小さくつぶやきました「東京へ帰ろうね」 2014/8/14 記

http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html

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