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No.950 夢十夜ならぬ夢一夜

 一昨夜、こんな夢を見た。
 「中庸新聞」の社長・中居(なかおり)某なる人物が、自己紹介しながら群衆を前に大演説をぶっている。意外にも聴衆は「中庸新聞」の熱烈な読者たちで、中居社長の一言一言に拍手を送ったり、シュプレヒコールを響かせたり、歓声を上げたりしている。
 なんでこんなところに自分がいるのか、まったく分からなかった。私は、旅人なのか?
 「どえらいところに来てしまった…」
という感情が起きた。私は、一つ方向に渦巻くような得体の知れないものに不快感を抱いた。
 ところが、思わぬ社長の言葉で、私は彼に注目するようになった。
 「このバックの底を見てくれ。わが社は、どのバックの底にもこの広告を打っている」
と言って、バックの底を聴衆の方に向けた。バックには、その周りにも上部にもいろんな会社のCMシールが貼ってある。ちょうど、レーシングカーやレーサーのボディーにスポンサー会社のトレードマークがあちこちに貼られているように…。
 人々は自分の持つバックの底を見た。私も見た。なんと、「中庸新聞-人々の力として底から支える-社長・中居某」のシールがズームアップして目に飛び込んできた。
 誰もが気づかないバックの底にコマーシャルを打ち、「底から支える」の駄洒落にちょっと笑った。だが、面白いと思った。そうして「ワァーッ!」という歓声で目が覚めた。
 
目覚まし時計は、午前3時過ぎを指していました。夜中に1回トイレに立つようになった時間でした。私は、すぐに枕元のスマホで「中庸新聞・中居(なかおり)社長」を調べましたが、ヒットしませんでした。「ふ~ん」と言いながら、とりあえずトイレに行きました。
 
右でも左でもなく中庸を貫こうとする新聞に、あれだけ多くの聴衆が居たことも、カバンの底にCMシールを貼るという前代未聞の発想も、みんな「夢の中」のことでしたが、私の深層心理を分析すると、どんな夢判断になるのでしょうか?えっ、老いらくの夢?
 
醍醐天皇(885年~930年)の命令で編纂された日本初の勅撰和歌集である『古今集』は、905年(延喜5年)に上奏されますが、最終的には914年~915年頃の成立であろうと言われています。その巻17・雑歌上・895番に、こんな「老いらく」の歌があります。

「老いらくの来むと知りせば門鎖(かどさ)してなしとこたへて会はざらましを」
(老年というものが訪ねてきて私をとりこにしてしまうことがわかっていたのなら、私は門をかたく閉ざして「お前に用のあるものはいない」と答えて、あの招かれざる客に会わなかっただろうに。)

出典:『古今和歌集』日本古典文学全集、小学館、昭和46年4月、P339

私は、玄関の鍵をかけ忘れ、いつしかその隙に入り込まれた招かれざる客に出逢ってしまっていたようです。夢の中の私は、少し若いように見えましたが、あれは、幻~?


※画像は、尊敬するクリエイター・kikuzirouさんの、タイトル「JW370 演説から始まった」をかたじけなくしました。みんなのギャラリーのお陰です。お礼申し上げます。