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No.1084 八介(八助)、いい男です!

「時に元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風をふるわせて
 響くは山鹿流陣太鼓、しかも一打ち、二打ち、三流れ、
 思わず、はっと立ち上がり、耳を澄ませて、太鼓を数え…」
三波春夫(1923年~2001年)さんの名調子「俵星玄蕃」(1964年=昭和39年)の一節です。その正式名は「長編歌謡浪曲 元禄名槍譜 俵星玄蕃」という舌を噛みそうなくらい長いタイトルですが、俵星玄蕃は講談上の登場人物で、四十七士の一人ではないようです。

今を遡ること321年の1702年(元禄15年)12月14日。その日の寅の上刻に(実際は15日の午前3時頃ですが、当時は日の出で日附を変更したので14日とされるのだとか。)赤穂浪士47人が本所の吉良邸に討ち入りし、主君・浅野内匠頭長矩の仇討ちを果たしました。世にいう「赤穂浪士(四十七士)の討ち入りの日」「忠臣蔵の日」です。
 
その仇討ちの中心人物は、赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助良雄ですが、この内蔵助には、下僕・八介(八助)なる人物が、以前仕えていました。これが、なかなか気概のある男なのです。少し長くなりますが、私の感動したお話を、是非、紹介させてください。
 
下僕の八介の事は、討ち入り事件から約90年後の『近世畸人伝』(伴 高蹊著、1790年刊)という伝記の巻二「大石氏僕」の中に記されています。活字本としては、『近世畸人伝/続近世畸人伝』(東洋文庫 202 平凡社 昭和47年1月刊)があります。
 
大石良雄が、赤穂の城から出て暫くの間は、城下にいながら京へ上る支度をしていました。ある日、同じく城下にいて、かつて使っていた下僕の八介が、大石に面会を求めてやって来て、こう言いました。
「我も御供して京へまゐり侍らんを、今は老(い)はてぬれば心にもまかせず。これは御対面たまはる限(り)ならんと、御名残(り)いはんかたなし。たゞし何にまれ御かたみの物をたまはらば、身のあらん限(り)御傍に侍る心地ならん。」
 
そこで、良雄はうなずいて、「なるほど、もっともじゃ。何か、形見にとらせよう。」と言って辺りを見ますが、身の回りの調度品の半分は京都に送り、残る半分も既に荷造りを終えており、やれる物が何もありません。硯箱が一つあったので開けてみると、「金弐拾片ばかり」があったといいます。
 
大石が、「せめて、これを受け取ってくれ。」と言って与えたところ、八介は大いに怒って、すぐさま投げ返し、こう言ったのです。
「是が何のかたみぞ、身こそ賎しけれ、心はさばかり下らんや。此(の)たび殿の不意になくならせ給へるは、吾等ごときすら限(り)なく悲しく口をしきに、おめおめと城を明(け)て、はひ出る心にくらべらるゝか。今はかたみもほしからず。」
と言って飛び出ようとしたので、良雄は八介を押しとどめて謝りました。
 
「いとことわり也、我あやまてりあやまてり。あまりに与ふるものなきゆゑの事ぞ。今おもひよりたること有(り)とて、墨押(し)すり、ありあふ紙引(き)ひろげて、堤の上に編笠著たる士の、奴一人つれたるかたを書(き)て、是はおぼえたるや、わかくて江戸に在(り)し日、汝をつれて吉原の花街へかよひし道のさま也。是はかたみともなりなんや。」トップ画像は、『近世畸人伝/続近世畸人伝』巻二「大石氏僕」中の挿絵です。
 
すると八介は、大変喜んで、「これこれ、これに勝る御形見はございません。その時は、こうでございましたなあ、ああでございましたなあ。」と昔話をして、泣き泣きいとまごいをしたとあります。内蔵助の動向を考えると、彼が城から出て、討ち入りの前年の4月ごろのことかと想像していますが、まさに、講談師が見てきたような興味深いお話なのです。
 
筆者の伴 高蹊は、次のようにこの話を結びます。
「義士の奴に朴実清廉の者有(り)けるは、美談とすべし。」
「朴実清廉」とは、「素朴にして誠実な人柄で、心が清く正しく、物欲などで心が動かされないような人物」のことを言うのでしょうか。
私は、八介が大石内蔵助良雄の下僕だったから有名になったのではなく、下僕・八介のゆえに、大石内蔵助という男が、より一層際立ったのではないかと、この話を読んで思いました。
 
「天晴れ八介!」と称賛したくなるほど、心のスカッとするお話です。いかがでしたか?その討ち入りの日まで、あと1年8か月。ゆっくりとカウントダウンが始まっていました。