見出し画像

No.1071 千年の時を超えて

画像は、わが団地内の「花咲か爺ちゃん」が、ゴミステーションの置かれた三角地に今年6月に植えた「コキア」です。苗木は爽やかな緑色をしていましたが、半年で、こんなにも色づき、大きく生長しました。

コキア(ホウキギ)自体の記録は、900年頃の書物にあり、日本へは中国を経由してアジアから伝わり栽培されていました。「枯れた茎はホウキ、果実は食用に」と実に無駄がないその利用価値の高さから江戸時代には広く利用されていました。(以下、略)

日本気象協会 tenki.jp 「只今紅葉の見ごろを迎えた『コキア(ほうきぎ)』と旬の『とんぶり』との意外な関係をご存知でしたか?」(やまもと こも) 2017年10月01日

その「900年頃の書物」とは、延喜5年(905年)の「左兵衛佐定文歌合」(「平貞文家歌合」)のことでしょうか?その歌合せの28番目の「右」は坂上是則(生没年未詳)の歌です。
「園原や伏屋におふる帚木のありとは見えて逢わぬ君かな」
 
ここに詠まれた「帚木」(ははきぎ)とは、信濃国園原の伏屋に生えている木のことだそうです。「園原」は、長野県下伊那郡阿智村の地域名だそうで、古代より和歌に詠まれた地です。遠くから見れば箒を立てたように見えるのに、近寄ると見えなくなってしまう伝説の木があるというのです。
 
そんなところから、近づいても逢ってくれない人、逢えそうで逢えない人の喩えに用いられたのが、一夜の逢瀬があったとはいえ、光源氏の求愛という身分違いの恋に悩み、逃げ去った伊予守の後妻である空蝉を『源氏物語』「帚木」の巻です。「帚木」は「ははきぎ」であり、光源氏にとっては思慕しながらも逢うことの叶わぬ「母」を重ねようとする紫式部の意図があったとも言われています。巧みな構想です。

ところで、清少納言の『枕草子』第十六段「原は」の章段にも、この例が挙げられています。
「原は、みかの原。あしたの原。その原。」
帚木の伝説が有名だったので、「園原」の名が記されたのだろうと言われていました。
 
このように、平安時代中期の西暦1000年前後に生きた2人の大女流作家が取り上げていることからしても、いかに「園原の帚木」伝説が有名であったかが知られるのです。
 
さて、昔は箒を作って使用したからその名がある「帚木」(ほうき草)は、今日「コキア」と呼ばれ親しまれています。原産地は、西アジア、中央アジアと言われますから、平安時代の前期には、中国を経て伝来していたのかもしれません。とするなら、コキア(帚木)の日本滞在歴は、1100年以上にもなるのです。
 
国営ひたち海浜公園(茨城県ひたちなか市)のホームページには、壮観なコキアの園が見られます。また、長野市川中島町の由健ガーデンのコキアアートもユニークな企画です。

それらとは比較すべくもありませんが、「夫婦円満」「恵まれた生活」の花言葉のある我が団地のコキアたちも、小さいながら自らの来歴を人々に語りかけるようにたたずんでいます。