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No.919 燭台の明かり

関西学院大学を出て繊維メーカーのニチボーに入社した男は、1921年(大正10年)生まれで、1941年(昭和16年)には召集されて戦地に赴きました。1944年(昭和19年)に、8割が戦死したと伝えられる最悪のインパール作戦に従軍し、数少ない生還兵のうちの一人となりました。「鬼の大松」の原点は、ここにあったのでしょうか。

その大松博文は、ニチボー貝塚に復帰し、バレーボールの指導者・監督として頭角をあらわします。その練習は過酷をきわめたといいます。日中は社員として働いた彼女たちですが、16時頃から練習を始め、深夜の1時、2時になることもあったと言います。
 
そして、「回転レシーブ」などの秘策をたずさえ、1964年(昭和39年)の東京オリンピックで強豪ソビエトを破り念願の金メダルを勝ち取りました。当時、小学5年生だった私は、その時の歴史の1ページをTVで観た生き証人の一人です。相手チームのタッチネットというあっけない幕切れとなりましたが、大接戦の試合だったので、興奮しながら応援したことを忘れません。私は、サウスポーの宮本選手のファンでした。
 
「スパルタの権化」「鬼の大松」として恐れられていますが、「東洋の魔女」と言われた選手たちの多くは「先生、先生」と呼んで王子様のように敬愛し恋心を抱いていたと言います。厳しい練習の中にも信念と熱意を持って指導する大松に、思慕できる師の姿を体で感じ取っていたのでしょう。
 
さて、私が中学2年生だった1967年(昭和42年)、「道徳」の教科書か資料で読んだのが、大松監督の「燭台の光」という文章でした。今、その文章は手もとにありませんが、概略はこんな内容だったと記憶しています。
 
「今回の東京オリンピックで、日本女子バレーは念願の金メダルを手中におさめました。それができたのは、正選手たちの並々ならぬ努力や汗や涙の結晶だと思う人が多いかもしれません。しかし、私は、彼らと同じかそれ以上に耐えて忍んで頑張った控えの選手たちがいたからこそ勝てたのだと思っています。
 誰もが、光り輝く選手たちの方に目も心も奪われがちです。それはロウソクの灯にも似ていて、彼女らの光が周りを明るく温かく照らすのです。誰からも輝いて見えたことでしょう。
 しかし、そのロウソクは、燭台という支えがあって、ようやく立っていられます。日本女子バレーチームにも、このレギュラーをいろんな方向からサポートする控えのメンバーがいました。彼らが不平不満を言わずに、みんなでチームを支えて頑張ってくれたから優勝できたのです。
 それなのに、「灯台もと暗し」と言って、一生懸命に支えるばかりの苦労の多いところに、光は届きません。それでも彼らは黙って支え続け、協力を惜しみませんでした。その彼らあっての金メダルなのだという事に、私は誇りを覚えます。彼らのお陰です。褒めてやって下さい。」
 
もう55年以上前のお話ですが、そんなお話でした。ものすごく感動しました。そんな考えのできる監督だからこそ、みんながついて行ったのだろうと思いました。大松流の極意を観た気がしました。
 
大松監督は、オリンピックの年の終わりにニチボーを退社し、中国の女子バレー界に招かれて献身的に指導したり、日本の政界への進出をしたりもしました。しかし、体を酷使しすぎたからか、1978年(昭和53年)に、57歳の若さで病没しました。
 
「最勝院克堂博文居士」、苦難を克服して勝ち続けた男の生き方に相応しい戒名でした。


※画像は、クリエイター・藤沢奈緒さんの、タイトル「みんなのフォトギャラリー用 スポーツ」をかたじけなくしました。私には、「東洋の魔女」たちがこんなふうに見えていたかもしれません。カッコいいヒロインたちでした。お礼を申し上げます。