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No.917 たまきはる命あればこそ

『平家物語』に琴の名手・小督局(こごうのつぼね、1157年~?)が登場します。小督の局は、平安時代末期に第80代高倉天皇(1161年~1181年)に仕えた後宮の女性です。たぐい稀な美貌の持ち主であり、又、箏の名手でもあったからか、高倉天皇に見初められ寵愛されるようになりました。しかし、高倉天皇の中宮であった建礼門院(平徳子)の父である平清盛の怒りに大いに触れます。実の娘可愛さゆえの父親の盲目的な所業です。
 
清盛を恐れて身を隠した小督局の行方を、高倉院は気にかけていました。高倉院は、源仲国に行方を探させます。折しも仲秋の夜の事、月が皓々と照る中、嵯峨野に出かけた仲国が得意の笛を吹くと、筝の琴の調べが聞こえてきます。それこそ、まぎれもなく、小督局が高倉院と別れ、嘆きつつも懐かしみながら爪弾く琴の音「想夫恋」の曲でした。

亀山のあたり近く、松の一むらあるかたに、かすかに琴ぞ聞こえける。峰の嵐か、松風か、たづぬる人の琴の音か、おぼつかなくは思へども、駒をはやめてゆくほどに、片折戸したる内に、琴をぞひきすまされたる。ひかへて是をききければ、すこしもまがふべうもなき、小督殿の爪音なり。楽はなんぞとききければ、夫を想うて恋ふとよむ、想夫恋といふ楽なり。

完訳日本の古典43『平家物語二』(校注・訳者 市古貞次、小学館、昭和59年6月 P177)

ところで、
「たまきはる命をあだに聞きしかど君こひわぶる年はへにけり」
という冒頭の歌があることから『たまきはる』の名もあるこの作品は、鎌倉時代初期の成立で、『健寿御前日記』や『建春門院中納言日記』とも呼ばれます。ちなみに「たまきはる」は「命」「世」「うち」「吾」などに掛かる枕詞でもあります。
 
作者は、鎌倉時代前期、後白河院の妃であった建春門院(平滋子)に仕え、中納言とよばれた女房です。藤原俊成を父として1157年(保元2年)に生まれたと言います。藤原定家の同母姉にあたります。
 
その『たまきはる』の中にも、小督局のお話が出てきます。彼女のその後の空白の小督の局消息について『たまきはる』(健寿御前日記・建春門院中納言日記) には、嵯峨で隠棲する彼女と会った記事が残されています。建春門院(高倉天皇の実母)の女房であった健寿御前(建春門院中納言)は、1174年(承安4年)3月、高倉天皇の法住寺殿への方違え行幸の際に、内裏女房の小督と初めて面識を得たようです。

「山吹のにほひ、青きひとへ、えびぞめの唐衣、白腰の裳着たる若き人の、ひたひのかかり、すがた、よそひなど、人よりはことに、はなはなと見えしを、いまだ見じとて、人にとひしかば、小督の殿とぞ聞きし。このたびより物いひそめて、つぼねの、そなたさまなれば、下るとても、具してなどありしが、その後ゆくへも知らで、二十余年の後、嵯峨にて行きあひたりしこそ、あはれなりしか。」

『健寿御前日記』(玉井幸助註、P160~161、日本古典全書、朝日新聞社、昭和48年10月第8刷)

その時のひときわ目立って優れた容姿を手放しで賞賛している健寿御前ですが、初めて会ったときは二人とも16~17歳の頃だったと研究者の玉井幸助氏は注しています。これ以後、何かと懇意にしていたものの、小督が宮中を去ってからは音信が途絶えていたのですが、20年余りも経った後に奇しくも右京の嵯峨で再会を果たし、若き日とはすっかり様変わりした風情に、「あはれなりしか」と深い感慨を覚えています。
 
高倉天皇崩御(1181年)後、13~14年以上が経っていたことになります。壇ノ浦の合戦(1185年)の後、鎌倉幕府が誕生します。平家の興亡や武家社会の生々しい姿をその目に焼き付けた人々です。三十代となって邂逅した彼女らの胸中はどのようなものだったでしょう?人の世の哀歓は表裏一体です。


※画像は、クリエイター・アッキー/noteとバドミントンの二刃流さんの、タイトル「瀬戸の海に浮かぶ神殿 厳島神社へ(広島県廿日市市宮島)」をかたじけなくしました。お礼申し上げます。