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No.887 これぞ、現代の「帚木」!

「箒(帚)」を「ほうき」と読むのは知っていましたが、「帚木」を「ははきぎ」と読むことは、高校時代に『源氏物語』の授業で知りました。
 
そもそも「帚木」とは何なのでしょう?なんでも、信濃国(長野県)の園原(現在の下伊那郡神坂)という所にあって、遠くからならこの木が見えるのに、近づいて見ると姿を消してしまうという不思議な幻の木だったようです。「箒のような姿」であったと言います。
 
次の歌は平安時代前期~中期の貴族・歌人だった坂上是則(?年~930年)が詠んだ歌。
「園原(そのはら)や伏屋(ふせや)に生(お)ふる帚木の有りとは見えて逢はぬ君かな」(『新古今和歌集』巻第十一・ 恋一・ 997番)
「園原の伏屋に生えている帚木(ほうき草)のように、居るのがわかっていても会えないあなたなのですね。」
 
この歌には「平貞文(たひらのさだふん)の家の歌合に」という詞書(ことばがき)がついており、その歌合せは905年4月に催されたことが分かっていますから、平安時代前期には、すでに都でも知られていた伝説だったようです。そして、遠くに見えるのに近づくと見えなくなるというもどかしさ、つれなさ、切なさは、恋の歌には格好の題材として受け容れられ、用いられたのでしょう。
 
さて、『源氏物語』の「帚木」は、「桐壺」に次ぐ巻名です。その巻名の由来は、光源氏と空蝉(うつせみ)との歌の贈答にあると言います。
「帚木の心を知らで園原の 道にあやなく惑ひぬるかな」(光源氏)
(帚木のようなあなたの心を知らず、愚かにも園原の(恋の)道に迷ってしまったことですよ)
 返し
「数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さに あるにもあらず消ゆる帚木」(空蝉)
(取るに足らない卑しい生まれの情けなさにいたたまれず、帚木のように消えてしまうほかないのです)
再会を拒み、会うに会えない空蝉です。見えているのに消えてしまう帚木の伝説に譬えたのが源氏の歌なのでしょう。紫式部もその伝説を下敷きに恋の贈答歌としたのです。
 
先日、テレビを見ていたら、神奈川県足柄上郡山北町の中川地区に「中川の箒杉(ほうきすぎ)」のあることを知りました。樹齢は、推定2,000年を超えると言われています。この大樹が、防災の要となって、大火と土砂崩れという2度の災害から付近の住民を守ったことは、その当時の生々しい写真が雄弁に語っていました。そして、地元の誇りとして、長い間、人々から崇敬の念を集めていることを知りました。
 
遠くから見える程の大樹「箒杉」は、近くでも偉容を示し、住民たちの心にどっしりと根を張っていました。これぞ、現代の「帚木」でしょうか。
 
「帚木に影といふものありにけり」 
 俳人・高浜虚子(1874年~1959年)


※画像は、クリエイター・sonokoさんの、タイトル「自分の価値観の偏りを知る」をかたじけなくしました。「ほうき草」の説明がありました。お礼を申し上げます。