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No.895 誰もが貧しかった田舎の小学生時代

「道に落ちちょるもんを、拾うち食ぶるんじゃねえで!」
大分県の国東半島入り口の農村部落に生まれ育った私は、よく母からそう言われ、小学校に送り出されました。戦後8年目に生まれ、昭和30年代に子供時代を過ごしました。まだ、都市や町の子どものような豊かな生活や食事ではありませんでした。友達の中には「欠食児童」といって、小学校にお弁当を持って来られない子どもや、三度の食事を満足に取れない子どももいました。
 
N君は、別の部落の山奥から通ってきていた男の子ですが、勉強が嫌いだったと見えて、授業中、近くの山の中に逃げ込むことがありました。先生達が探しに行ったこともありました。当時、小学校の4年生までは弁当持参でした。N君は弁当を持って来ず、グラウンドに面した教室横の角にあった水道の水をがぶ飲みしていた姿を思い出します。山中への逃亡癖は、彼しか知らない果物の実や食べられる植物などを物色し、見つけていたからかもしれません。
 
我々の弁当と言えば、麦飯の詰められたアルマイトの弁当箱の真ん中に梅干しが日の丸よろしく鎮座していました。おかずは、ソーセージをゆでてブワンブワンに膨らませたのやら、野菜の炒め物や佃煮くらいでした。卵焼きや、ゆで卵や、鯖味噌や、ウインナーが入っていたりすると、「どんだけ~!」というくらい味わって食べました。

しかし、それらはまだ良い方で、クラスの女の子たちは弁当の蓋で、おかずの所を覆い隠しながら食べていました。見られるのが恥ずかしいくらいのおかずだったからです。それが、われわれ田舎の農村部の小学生の現実でした。まだまだ、みんな貧しい時代でした。農家の僅かな収入だけで生活していました。元気な父親たちは、出稼ぎに出ていました。

それだから、小学校5年生の時から始まった「給食」は、もう別世界の時間でした。コッペパン1個と、脱脂粉乳一杯と、おかずが一品というシンプルこの上ないラインナップです。それでも、ウドンが出たり、野菜のうま煮が出たり、クジラ肉の竜田揚げが出たり、シチューが出たりするのです。滅多に食べられない食事が、いつも腹を空かせていた我々子どもたちの五感を癒してくれるのですから、もうたまりません!誰一人として、残す者はいませんでした。N君は、昼ご飯の給食をみんなと一緒に食べるようになりました。
 
先日、友人の一人から来年の2月か3月に「古希の会」を開きたいが、出席してくれるかとの電話をもらいました。彼は、有能な幹事で、今も長距離ドライバーをしながらも、こんな時に真っ先に骨を折ってくれる得難い人物です。大概、酒が入ってから電話をくれるので、少し舌がもつれます。しかし、その言葉だけは、ハッキリ聞こえました。
「Nが死んだって聞いたけど、知っちょるかい?」

10年前の「還暦」の中学同窓会でN君に45年ぶりに再会したのが、最後となってしまいました。私は、N君の小学時代の「孤独」と「空腹」の姿を思い出していました。


※画像は、クリエイター・uchidahisatakaさんの、タイトル「昭和51年小学校給食風景」をかたじけなくしました。私はもう少し前の世代ですが、こんな雰囲気の楽しい給食の時間でした。お礼申し上げます。