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No.1049 人生の赤い玉

次の話は、「じんじょう小学校修身・巻四」(児童用19)にあり、第三期(大正7年)改定教科書に載っているそうです。いいお話です。

第十九 よい習慣を造れ
よい習慣を造るにはつねに自分をふりかへつて見て、善い行をつとめ、わるい行をさけなければなりません。滝鶴台の妻が或日たもとから赤い毬を落しました。鶴台があやしんでたづねますと、妻は顔をあかくして、「私はあやまちをして後悔することが多うございます。それであやまちを少くしようと思ひ、赤い毬と白い毬を造つてたもとへ入れておき、わるい心が起るときには、赤い毬に糸を巻きそへ、善い心が起るときには、白い毬に糸を巻きそへてゐます。初のうちは赤い方ばかり大きくなりましたが、今では両方がやつと同じ程の大きさになりました。けれども白い毬が赤い毬より大きくならないのをはづかしく思ひます。」といつて、別に白い毬を出して鶴台に見せました。自分をふりかへつて見て、善い行をつとめることは初は苦しくても、習慣となればさほどに感じないやうになるものです。
 習、性トナル。 

(「じんじょう小学校修身・巻四」)

文中の瀧鶴臺(1709年~1773年)は、江戸時代中期の儒医だそうです。通称は初め亀松、のちに弥八と名乗っていました、鶴臺(鶴台)はその号です。妻・たけ(竹?)は、自ら望んで鶴台の妻となり「内助の功」があった人だと言われています。
 
たけさんは、常に赤と白の毬を持ち、悪い行いをすれば赤い糸を巻き、善い行いをしたときには白い糸を巻いて反省したのだそうです。米沢の藩主の上杉鷹山(1751年~1822年)も若き日、その夫・瀧鶴臺の門弟のひとりであったといいます。
 
修身では「習い、性(せい)となる」、つまり、習慣を続けていれば、いつかそれが性質に至るのだと結んでいます。有徳の教えだと思いました。
 
さて、紅白と言えば、『平家物語』の「源氏の白旗 」、「平家の赤旗」 は有名です。運動会での紅組・白組対抗の由来となったという説もあります。「白」は神の清らかさを表し、源氏が八幡神を崇拝していたからだといいます。一方、「赤」は太陽の色であり、平家が天照大神(あまてらすおおみかみ)を先祖とする天皇家の流れであるとアピールしたかったから、などと言われています。
 
たけさんの糸の赤白も、勝ち(善し)の縁起で「白」、負け(悪し)の縁起で「赤」だったのでしょうか?それにしても、彼女の純真な心根に感嘆するばかりです。たけ(竹)に相応しい真っすぐな心のように思われました。
 
わが人生を振り返った時、白い糸玉と赤い糸玉のどちらが大きく巻けているだろうかと考えてしまいます。結構失敗したり、悔やんだりしたことが少なくなかったので、赤玉の方が勝っているのでしょう。

人生に余白が許されているなら、この先少しでも白糸が巻きたいものです。


※画像は、クリエイター・ミカヅキさんの、タイトル「おてまりさん」の1葉です。お礼申し上げます。
その画像の説明に、「満面の子供たちの笑顔を願う気持ちを込めて、ひと針ひと針刺していく。 その時間はとても静かで穏やか。 針と糸だけで広がる幸せ小さなグラデーションの世界。 手まりの数と平和が同じくらいになるならば、いっぱいいっぱい手まりを作りたい」とありました。
たけさんのような心を持った方が、ここにもおられます。