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No.867 三人の日と書いて「春」

長女:(1911年生、翌年病没)
長男:(1913年生、言語学者、2004年91歳没)
次女:(1915年生、同年病没)
三女:(1916年生、翌年病没)
四女:(1921年生、20代で没)
先日、高名な言語学者・金田一京助(1882年~1971年)の子どもたちの中で天寿を全うしたのは、長男の春彦(言語学者)氏だけだったことを知り、衝撃を受けました。京助夫婦は、どれだけ血の色の涙を流したことでしょう。
 
その、アクセント研究の第一人者だった言語学者・金田一春彦氏の話です。
「パルツンゲーテ ナットゥ キニケラーチ チロタペノォー コローモポシチョー アマァーノカグゥヤマァー」
と、春彦先生は発音したのだそうですが、何のことだかお分かりですか?
 
これは、今から1300年も前の万葉時代の日本語の発音が、今とはずいぶん異なっていたことを説明するために『百人一首』の持統天皇(645年~703年?)の歌を試みに読んだものだそうです。サ行音・タ行音・ハ行音に特徴があったようですね。
「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」
『金田一春彦著作集』(第9巻、玉川大学出版部、2005年9月)に記述があるそうですが、ヘーボタンを乱打してしまう私です。
 
もう一つのお話は、胸を打つものです。
春彦氏が高等学校に入学した頃、阿佐ヶ谷の実家近くで、後に童謡歌手となる女学生・安西愛子さんを見かけて一目惚れしてしまい、自宅に恋文を書き送ったのだそうです。しかし、愛子さんの父親(当時、小学校校長)から「交際を認めない」という手紙が来ます。春彦氏の手紙は、愛子さんに読まれることはありませんでした。
 
春彦氏は、1938年(昭和13年)、東京帝国大学大学院に籍を置いたまま陸軍に応召しました。ところが、甲府の歩兵連隊に入営する日、町会の人々が開催してくれた出征を祝う式の中に愛子さんの姿があったそうです。

というのも、愛子さんのお父さんが、何の理由も告げずに、
「今日の人の出征の見送りには、是非参列するように。」
と言われたからだそうです。春彦氏は、愛子さんの父親が亡くなられて三年後に、愛子さんから聞いてはじめてそのことを知るのです。
「恋文のお返しは充分していただいた。」
と、春彦氏は思ったそうです。
 
春彦氏が愛子さんに恋文を送ったのは、1930年(昭和5年)頃のことです。愛子さんの父親にしてみれば、17歳の少年が、学業に精を出さずに色恋に耽るとは何事かと憤られたのかも知れません。結局二人は結ばれませんでしたが、それぞれの道で大成されました。
 
春彦氏は1913年(大正2年)4月3日のお生まれ、そして、愛子さんは1917年(大正6年)4月13日のお生まれです。まことについでながら、私は1953年(昭和28年)の今日4月29日が誕生日です。唐の詩人・杜甫のいう「古希」を迎えることが出来、両親に感謝しています。


※画像は、クリエイター・南の島さんの、タイトル「四つ葉のクローバー」をかたじけなくしました。善き哉!お礼を申し上げます。