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No.1053 みのひとつだになき

「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きがあやしき」
「七重八重に花は咲いているけれども、山吹が実の一つさえも無いのは不思議ですが、蓑一つさえないのは恥ずかしいことです。」
 
この歌は、醍醐天皇の皇子・中務経兼明(かねあきら)親王(914年~986年)の作品です。1087年に完成した『後拾遺和歌集』巻19・雑5、1154番に収載されています。

その歌の詞書(ことばがき)には、
「小倉(をぐら)の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りてとらせて侍りけり。心も得でまかり過ぎて、又の日、山吹の心えざりしよし、いひおこせて侍りける返りごとに、いひ遣はしける。」
「小倉の山荘に住んでいました頃、雨が降った日、蓑を借りる人がいましたので、山吹の枝を折って取らせました。その人は、わけもわからずに通り過ぎまして、翌日、(蓑を借りようとしたのに)山吹を折って渡された意味がわからなかったということを言って寄こしてきましたので、返事として詠んで送った歌」
とありました。
 
兼明親王は72歳の986年に中務卿(宮中の政務を統括した中務省の長官)を辞しています。その後は嵯峨亀山の山荘(雄倉殿)に隠棲したそうですから、その頃の事でしょう。残念ながら、掛詞(洒落?)による真意が、相手に通じなかったものと見えます。よくできた歌だと惚れ惚れします。
 
これに似た話が、太田道灌にもありますよね。
室町時代の後期に活躍した関東武将が太田道灌(1432年~1486年)です。ある日、鷹狩に出かけた折に、急な雨となりました。近くの粗末な小屋に立ち寄って、蓑を借りようとしたら、若い娘が出てきて、黙って山吹の花一枝を道灌に差し出しました。道灌は娘の意を汲むことが出来ず、怒って立ち去りました。
 
後に、そのことを家臣に話すと、それは、
「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきが悲しき」
という古歌を踏まえたものだと謎解きするのです。「なきがあやしき」は「なきがかなしき」に言い換えられています。その家の娘さんは、
「貧乏ゆえ、道灌様にお貸しする蓑一つもございません。申し訳ございません」
ということを、山吹に託して「みのひとつだになき」と告げたのでしょうと語ったそうです。それを聞いた道灌は、己の無学を恥じ、和歌に精進し、立派な歌人になったのだと伝えます。
 
この話は、江戸時代中期の岡山藩士で儒学者の湯浅常山(1708年~1781年)の著した逸話集『常山紀談』(1739年)に書かれており、教訓的な説話として広く人々に知られていたそうです。多分に創作の臭いがしますね。
 
『後拾遺和歌集』と『常山紀談』には650年もの開きがあります。しかも、兼明親王の歌の詞書の世界そのままに、太田道灌の話の演出がなされています。それだけに、湯浅常山なる人物の博識にも唸ってしまうのです。

昔の人々の学問的教養、そして、古典の感動的な心を積極的に享受しようとする姿勢に、畏れ敬いたい気持ちになるのです。


※画像は、クリエイター・Satoru Toyaさんの1葉をかたじけなくしました。その説明に、「やまぶきです。黄色い可愛らしい花です。」とありました。お礼申します。