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No.792 大山老師に聴いた種田山頭火の人となり

俳人・宗教家の大山澄太(おおやますみた1899年~1994年)は、逓信省(後に郵政省、現、総務省)の役人として務めましたが、種田山頭火(1882年~1940年)の顕彰にも努めた人物です。
 
「分け入っても分け入っても青い山」
「うしろ姿のしぐれて行くか」
「生死の中の雪ふりしきる」
「焼き捨てて日記の灰のこれだけか」
「鉄鉢の中へも霰」
その句は種田山頭火ならではの自由律です。人間臭く、乞食坊主で破戒僧の山頭火と大山は親交が厚く、その縁で『定本種田山頭火句集』や『俳人山頭火の生涯』などを著しました。その道では、全国に名の知られた俳人であり研究者であり禅僧だったそうです。
 
その大山が、91歳になった1990年(平成2年)の12月初旬、関アジ・関サバで知られる大分県佐賀関町で講演会を行いました。伝え聞いた私も聴衆に入れていただき、メモ書きした一部が以下のお話です。
 
大山は郵政省の役人だった頃に山頭火と知己を得ました。ある出張の折に、酒1升と豆腐を12丁持って山頭火の庵(「其中庵」ごちゅうあん)を訪れました。寒い日の事だったそうです。深更にまで話が及びましたが、夜具は粗末な山頭火の分だけしかありません。大山は、それを着て寝たそうです。掛布団は夏用の薄物であり、足の出たところには山頭火の褌がかぶせられたといいます。
 
大山は、その夜、ふと目覚めました。見ると、自分の背後で山頭火が禅を組んでいます。粗末な庵の隙間から冷たい風が吹き込みます。山頭火は、その風を背にして大山を寒さから防ごうとしていたらしいのです。大山は、涙したそうです。無償の行為の尊さを感じたからでしょう。
 
その日暮らしの乞食で、衣・食・住みな粗末で、何一つ蓄えず、また、身一つで全国を回った山頭火ですが、大山が初めて庵を訪れた時、飯を炊いてくれたそうです。大山が飯を残すと、山頭火はにこにこしながら「ああ、うまい、うまい」とそれを食べたといいます。米のとぎ汁で雑巾を洗ってせっせと庵を磨き、それが済むと汚れたとぎ汁を野菜畑に持って行き、野菜に声を掛けながら撒いてやりました。
 
この何一つ無駄にしない生活や、全てのものに愛情を注いだ山頭火という人物に、ほとほと感心させられました。大山老師の話のうまさもあったでしょうが、思い出すたびに心の奥が温かくなるのを覚えました。大山は、その後94歳で弥陀のもとへ旅立ちました。
 
「此の道しかない一人であるく」
 大山澄太

※画像は、クリエイター・村木藤志郎さんの、タイトル「山頭火と石積み」をかたじけなくしました。お礼を申します。