守礼門

守礼門に中山府の扁額がかかっていたのは画家の嘘だった!


 

首里城の玄関の役割を果たす守礼門、
この門が守礼門と呼ばれるのは、
上部に掲げられた守禮之邦の扁額の為です。
そして、この守礼門には
ペリーの首里城訪問時のエピソードがあります。
簡単に言うと、王府はペリーが招かれざる客である事を暗に示す為に
敢えて守礼之邦の扁額を外して中山府の扁額を掲げる事により
「あなたは招かれざる客だ」と示したというのです。
しかし、この話ある横着な画家のせいで広まった俗説かもしれません。

色々オカシイ点がある守礼門の絵


琉球がペリー一行を歓迎しない事を示す為に
あえて守禮之邦の扁額を外した
その話の元ネタはペリーに随行した画家ブラウンが描いた
守礼門にあります。
こちらの絵には、門の左側に琉球士族の一団、
門の右側にアメリカ人一行が描かれており
確かに守礼門の扁額は、
つたない文字ながら中山府となっています。
これを見ると、確かにアメリカ人画家により
守礼門の扁額が替えられた その証拠のように見えますが、
こちらの絵にはオカシイ点があるのです。

何かというと、
守礼門の屋根の影と左側の樹の影が全然逆になっています。
具体的に言うと、屋根の影は午前中、樹の影は午後になります。
つまり、この絵は現実にはあり得ない時空が歪んだ絵なのです。
では、どうしてブラウンは影の向きが違う
ヘンテコな絵を描いたのでしょうか?

ブラウンは中山門と守礼門をミックスした


現在は残っていませんが、
実は明治末まで首里城の入り口の門は
守礼門ではなく中山門という門でした。
元々は建国門という名前でしたが、
扁額に中山府の額を掲げたので
いつしか中山門と呼ばれるようになったようです。
そして、この中山門扁額以外は、
守礼門とほとんど同じような形をしていたのです。

ここからは画家であり作家だった山里永吉の説ですが、
つまりブラウンは午前中に中山門をスケッチし その後、
午後に守礼門をスケッチしたのではないかと言うのです。

王府にとっては違いがある中山門と守礼門も
外国人であるブラウンには
第一ゲート、第二ゲートでしかありません。
そこで画家ブラウンは横着し、
最初に描いた中山門を守礼門として
絵に残す事にしたのではないか?と言うわけです。

またブラウンが漢字に不慣れである事は
絵画を見ても分かります。
そんな彼が、敢えて画数も多くて難しい
「守禮之邦」という扁額は選ばないでしょう。

どうせ意味も分からないのですから、
ずっと描きやすい中山府という 三文字を選んだのです。
画家ブラウンの横着が伝説を生んだ

しかし、ブラウンの意図はブラウンにしか分かりません。
そして、絵そのものは写実的に描かれているので後世の歴史家は、

「これは守礼門なのに、扁額は中山門になっている
そうか!王府はペリー一行を招かれざる客だと思っていたから、
敢えて守禮之邦の扁額を外して、中山府の額を架けたのだ」

こんな風に推理を重ねて勘違いしたのだろうと推測します。
そもそも意趣返しも何も、
ペリーは200名の軍勢と野戦砲二門を引っ張り
強引に首里城に入ったのであって、
王府は終始対応に苦慮していました。

ようやく国王との謁見だけは回避したものの、
そんな最中に 扁額を替える等と言う
芸の細かい事は出来ないでしょう。
大体、替えたとしてそれは誰に見せるのでしょうか?
まさか中国の冊封使が首里城に来た時に、

「実は異人が首里城に入城しましたが、
我々は守禮之邦の扁額を外し
歓迎していないという意思表示をしました」

なんて王府が自慢気に語るわけもありません。
出来れば、そんな不名誉な話は
したくもなかったでしょう。

まとめ


というわけでブログ主は山里永吉説を支持します。
絵画というのは、画家の筆先一つでいくらでも脚色できるものであり
実際にブラウンも、本当に見たままを絵画にしたわけではありません。
扁額交替の話はそうした所で何ら実効性がないものであり、
小説のネタにはなっても、実際に王府がやるとは思えません。
ただ、そういう裏話を知るのも歴史を学ぶ面白さでしょうね。

琉球・沖縄の歴史を紹介しています。
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