琉球エゴイスト列伝3拷問に耐えるのはナンセンス牧志朝忠


 牧志朝忠は、琉球国時代の末期に登場した外交官です。

外国語の力を活かして圧倒的に劣勢な琉球で
強大な西洋列強に立ち向かいました。

こういう人なので、さぞかし熱血漢であったのかと思いきや
朝忠は超ドライな合理主義者でした。

今回は、島津斉彬死後に起きた
琉球の守旧派の巻き返しにより無実の罪で投獄された

牧志朝忠が取ったアンビリバボーなエゴイズムを紹介します。


牧志恩河事件勃発


1858年、牧志朝忠や恩河親方、小禄親方のような
親薩摩の開明派を引き立てた薩摩藩主、島津斉彬が
天保山での軍事演習の途中に急に体調を崩し、

一か月もしない間に急死しました。

斉彬の死は、斉彬の父である斉興の差し金とも言われます。

こうして、返り咲いた斉興は、
斉彬の近代化政策を完全に白紙にしました。

もちろん、それは、斉彬の引き立てで出世した
3名の身の上にも降りかかりました。

斉彬を恨むわけにはいかない琉球の守旧派の憎悪は、
牧志朝忠や、恩河親方、小禄親方に集中し
すぐに報復が開始されたのです。

かくして始まったのが、
琉球国史上屈指の後味の悪さが残る牧志・恩河事件です。

事件の黒幕には、恩河親方の有能さに嫉妬し、
勝手に恥をかかされたと恨んでいる摩文仁親方がいましたが、
斉彬の強引な王府人事への介入は摩文仁親方ばかりでなく

多くの琉球士族守旧派の恨みを買っていました。

まずは、御物奉行(財務大臣)として
斉彬の政策に協力していた恩河親方が突如奉行を罷免され

同時に、公金横領の科で平等所に収監されました。

しかし、そもそもがでっちあげの容疑なので平等所は無罪を宣告。

すると、守旧派は恩河親方が薩摩藩に対して、
座喜味親方を中傷して三司官を罷免するように唆したとして
容疑を切り替えました。

恩河親方はいたって正直な硬骨漢であり、
記憶力も抜群でしたので、薩摩での座喜味親方とのやり取りを
完璧に再現し、そんな事はしていないと

断じて認めようとしませんでした。

追い詰められた守旧派は、無理やりにでも自白させようと

遂には恩河親方を拷問にかけたのです。

さらに、逮捕の手は小禄親方にも延びました。

守旧派は、まず三司官の小禄親方を免職にして隠居させてから、

薩摩在藩奉行に賄賂を贈ったという科で逮捕しました。

この間まで三司官だった人物が逮捕されるというのは
異例の事態であり、事件はより深く広がる様相を見せていました。

エゴイスト牧志朝忠、坂元権之丞に賄賂を贈れ


小禄の逮捕を聞いた牧志は、
自分の義弟桑江を小禄親方の秘書を勤める潮平親雲上に派遣し

薩摩の坂元権之丞に反物を賄賂として贈り、
処分が免職だけで済むように勧めています。

元々、この事件が
守旧派による報復裁判である事を知っていた牧志は、

「容疑が嘘だろうと何だろうと、ここは認めて
寺入りでも島流しでも受け入れて風向きが変わるのを待て」と
言いたかったようです。

しかし、潮平親雲上も硬骨漢だったのか、
この助言を聞き入れずに、小禄親方に一部始終を話しました。

小禄親方も、潮平親雲上に賛同し、

「今は薩摩に賄賂を贈った疑惑で取り調べを受けているのに、

ここで賄賂とはとんでもない事だ」と牧志の助言を拒否しました。

小禄親方も、強情で正義の人で、
取り調べでは一貫して無罪を主張します。

当然、守旧派は小禄にも恩河同様の拷問に掛けました。

逮捕された牧志朝忠はあっさり容疑を
認め拷問を免れる


小禄親方の逮捕後、
今度は小禄親方に賄賂を勧めた科で牧志も逮捕されます。

ところが、牧志はただの報復である拷問に
耐える意義を見出せず、小禄親方に罪を軽くする為に
坂元権之丞に賄賂を贈るように勧めた事をあっさりと認めた上

守旧派の言い分を飲み

「三司官選挙の時に小禄親方に頼まれて次点の伊是名親方を

三司官にするように市来四郎に依頼した」と嘘の証言をしました。

牧志は拷問を免れ早々に久米島に十年の流刑と決まります。

エゴイスト牧志は、摩文仁親方や宜野湾親方の報復に
付き合う義理はないと
さっさとでっちあげの罪に服して再起を待つのです。

現在も、無実でも無罪を勝ち取れない状態の時に
甘んじて罪を認めて服役しその間に証拠を集めて、
再度、裁判を起こして名誉を回復するという手法がありますが

牧志がやろうとしたのは、それではないかと思います。

正義を貫いた小禄親方と恩河親方の末路は

哀れなのは、牧志に嘘の自白をされた小禄親方です。

守旧派の糾明奉行の宜野湾親方と摩文仁親方は
牧志の自白を根拠に、小禄と恩河を拷問で責めたてました。

小禄は計十二回の拷問を受け、
足の肉は裂け、骨が見える程の重傷

しかし、二人の強情はすさまじいもので
嘘の自供をする事を拒否します。

その最中で恩河親方は拷問による激しい衰弱で
ドクターストップになり

容疑不明なまま伊江島への流罪が決定

拷問は小禄親方に集中する事になります。

こうなると追い詰められたのは守旧派です。

次第に王府でも拷問に対する嫌悪が募りつつあり、

何が何でも拷問で口を割らせようと、
水責めと三角木馬を使う事を国王尚泰に願い出ます。

水責めは一度は許可されましたが、
小禄の人柄を知る国母の取り成しにより

すんでのところで回避されました。

こうして、報復裁判は結審し、証拠もないままに
恩河親方は久米島に六年の流罪、

小禄親方は伊江島に500日の寺入りと決まります。

ところが、恩河親方は拷問により極端に衰弱しており

船を待っている途中で病死しました。

小禄親方は、伊江島で500日の寺入りとなりますが、

その後は世の中が嫌になったのか
政治に関わる事もなく終わりました。


牧志朝忠は本当に自殺か?


大人しく冤罪が晴れるのを待っていた牧志の再登板は、

思いのほかに早くやってきました。

久米島に流罪と決まりながら、
沖縄本島に拘留されたままだった牧志は、

薩摩藩の圧力により、1862年6月、
牧志を英語教授方とするとして薩摩役人に拉致されるように
牢獄から解放され蒸気船に乗せられたのです。

ところが、牧志は伊平屋沖で投身自殺して生涯を閉じました。

自殺の理由としては、
政局に利用される己の境遇を儚んで
という理由がつけられていますが、
本当に牧志がそんなナイーブな人物でしょうか?

牧志の処世術を見ていると、
生粋の外交官らしく非常にドライで

必要なら冤罪でも甘んじて受け入れて
すましこんでしまう

エゴイスティックでドライな人柄が見て取れます。

本当は、時代の先を見通し、
やれやれ漸く冤罪が晴れたと、ケロっとしていたところで、
牧志を薩摩に逃してたまるかという

怨恨を持つ守旧派が船から突き落としたと考えた方が、

なんとなく牧志の人物像に合致するような気がします。

琉球・沖縄の歴史を紹介しています。
http://blog.livedoor.jp/ryukyuhattuken/

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