ラジオ

アメリカ軍に睨まれた人気ラジオ局 KSBK


現在も沖縄のラジオはローカルに徹した地元密着型
パーソナリティの個性を前面に出しつつ、
フリートーク形式で情報をリスナーから集め
盛り上がるという形式を採用しています。

しかし、この方式のルーツが米軍統治下で始められた
民間英語放送ラジオ局KSBKだったことを知る人は
今では少ないでしょう。

今回は基地内のアメリカ兵の生の声を拾い上げ、
軍に睨まれても言論の自由を貫き、復帰の1年後に消滅した
KSBKを紹介します。

米軍人、軍属向けに開局したKSBK


KSBKは1955年9月1日に出力500ワット(後に3キロワット)
周波数880キロワットで開局、敷地は琉大構内の
KSAR (琉球放送)局舎内に置かれてスタートしました。

琉球放送は制約はあるものの、一応民間放送であり、
その傘下としてKSBKがあったのです。

KSBKは基地内に7~8万人いた米軍人軍属向けの商業ラジオで
日・沖の企業も、英語放送を通して商品をアメリカ軍人・軍属に
売りこむ事が出来ると続々とスポンサーになりました。

アメリカ人スタッフが威張り腐って廃局の危機


しかし、上役が沖縄人、部下がアメリカ人という特殊なKSBKは
すぐに沖縄社会の矛盾とぶちあたります。
アメリカ人スタッフが威張りくさって、親会社の琉球放送の指示を聞かず
会社の運営がギクシャクしだしたのです。

それに加えて、沖縄人サイドに英語を理解できる人間も少なく
両者の溝はますます拡大し、営業も振るわずいよいよ開店休業状態
開局1年もしない間に 二人のアメリカ人支配人が無気力な
局運営と金銭トラブルで首になりました。

リチャードソンの指揮下で
本格商業放送に生まれ変わる


3代目の支配人になったリチャードソンは有能な人物でした。
彼はアメリカ軍のアクセサリであり、赤字にさえならなければ
上出来とされたKSBKを本格的な商業放送局として、
産まれ変わらせる為に、以下のような手を打ちました。

・多すぎる局員を減らして徹底した経費削減
・ラジオマンのモラルを維持できる人員管理システムの構築
・ローカルニュースと音楽を中心に据えた番組編成
・予算を圧迫する高価なアメリカドラマを使わない

これは、当時のラジオの主要なリスナーだった若いGI の
ハートをつかむ事になりました。
当時の米軍兵士の関心事は本国のプロパガンダ放送や
退屈なドラマより流行の音楽、そして今、話題に出来そうな
沖縄のローカルニュースだったからです。

こうして、米民政府の第二放送局でしかなかった
KSBKはリスナーに熱狂的に支持されていきます。

パーソナリティを前面に出し読者参加イベントを多用


KSBKの特徴はミュージック&ニュースステーションだけではなく
個々のラジオパーソナリティの個性を前面にだしてリスナーに
印象づける手法やリスナー参加型のイベントを多数行った
点にもありました。

それは、名護から那覇までの「歩け歩け運動」や
米軍クラブからのショ―の中継、RBC新社屋の屋上での
ダンスパーティーの開催、KSAR とリンクした
NHK交響楽団演奏のサイマルキャスト放送などを行うなど
多岐にわたっていました。

パーソナリティのおバカ企画


当時としては、人気優先のおバカ企画もあり、
1967年の11月には、アナウンサー アート・ベル(22歳)が
連続ディスクジョッキングの世界記録に挑戦、
115時間の世界記録を1時間上回る116時間の記録を打ち立てます。

この時、局の前の1号線(現58号線)を走るアメリカ人の車は、
警笛を鳴らしてベルを激励し、多くのリスナーが放送局に激励に
やってきたそうです。

それに味を占めたのか、ベルは翌年の1968年の5月に
3名の米兵と共に、RBC前の駐車場で57時間19分間
シーソーゲームをやり続けるという世界記録を達成しました。
これなんかは、一点の曇りもないおバカ企画です。

さらにKSBKは、リスナーの情報提供者に
88セントの謝礼を出すなどして局のPRにつとめ、
「軍の機密情報の漏えいを唆すのか!」と
軍からクレームをつけられた程でした。

※ちなみに謝礼金88セントは、KSBKが
周波数880キロサイクルだった事にちなんでいました。
ここまで宣伝だったのです、随分ふざけています。

リスナーに望まれる自由な放送を届ける


1958年、沖縄の経済がB円からドル経済に移行した事で、
基地内の経済と県経済はより密接になりました。
それにともない、KSBKは県内企業のスポンサーが増加していき
1960年代の終わり頃からはスポンサー料の70%を
県内企業が占めるようになり、米軍(クラブ関係)は僅か10%でした。

これにより、KSBKは軍の「スポンサーを降ろすぞ」という
脅しを無視できるようになり、より自由で公平なリスナーに
望まれる放送を実現できるようになります。

リスナーもプロパガンダまみれで偽りの琉米親善番組よりも
パーソナリティが本音で語るKSBKを支持しました。
権力におもねるメディアは必ず堕落して見放され、
自由にモノを言うメディアが支持されるという、
メディアの在り方を、KSBKは現しています。

KSBKの看板番組 オピニオンライン


このKSBKの人気番組が3時間のリスナー参加型放送
オピニオンラインでした。

内容はタイトルの通りにリスナーが、
その時々の話題について自由な意見を述べて
議論する番組でした。

1969年から始まった、この番組は沖縄の施政権の返還が
決定した時期であり、ベトナム戦争への批判が、
アメリカ兵からも出始めていた時期であり、
公民権運動の高まりで黒人兵の権利意識の向上、
ブラックパワーが台頭し始めていた時期でした。

このオピニオンラインは、必然的にアメリカ社会が抱えている
矛盾をリスナーが爆発させるハケ口として機能します。

話題は多岐にわたり、政治問題から、
電気、水道、PX(軍売店運営)基地内での服装や
「オルガスム」というような極めて、
プライベートな話題までが延々三時間議論されました。

当時のオピニオンラインの人気司会者
ボブ・ウェイルズは、以下のような感想を残しています。

リスナーの希望で翌日の話題を決めたり、
私が新聞や雑誌の切りぬきを選んで問題提起した事もありました。
できるだけホットな話題を選んでいましたね。
議論はエンタテイメント(娯楽)でもあるのです、沖縄問題を
一般のアメリカ人に理解させるのにはかなり役立ったと思います。
なにしろ一般のアメリカ人の間では、どうして、アメリカ軍将兵の
血であがなった島を返すのか?どうしてアメリカ政府は日本に弱腰なのか?
沖縄県民はアメリカがどんなに沖縄に尽くしたか分からないのか?
そのような声が圧倒的な意見でしたから


中には、匿名を良い事に電話を掛けて一方的にアメリカ軍司令官を
口汚く罵って電話を切る困ったリスナーもいたそうです。

ボブは常に中立・公平を心掛けましたが、ゲストによっては、
「アメリカ軍にとって好ましからざる」人も登場する事になり、
リスナーとの間でベトナム戦争への批判、アメリカ政府への批判、
人種問題など、米軍を刺激せずにはおかない話題が噴出
聴取率は伸びましたがオピニオンラインは
確実に軍に睨まれる存在になりました。

それでも、ボブの記憶では、アメリカ軍は
公式にはRBCに一度の苦情も出さなかったのだそうです。
当時の米軍は、例え建前であろうとも言論の自由を守り
民間局にまで自分の意向をゴリ押しはしなかったようです。

KSBKの放送の終了


RBCとしては日本復帰後も、大人気のKSBKを
存続させるつもりでした。
しかし、郵政省は
「一局にテレビ一波、ラジオ二波は前例がない」を理由に
再三の要請を却下しました。

これには、アメリカ軍の圧力もあったのではないか?と言われますが
確かな事は分りません。
電波枠が取れなかったKSBKは、放送免許期限満了の1973年、
10月31日、御前0時、17年の歴史に幕を閉じました。

ダイアナ・ロスのタッチ・ミー・イン・ザ・モーニングの最期の歌詞
「我々には明日はない、しかし我々には昨日がある」が終わった所で
時報は0時となり、通夜に集まったリスナーは泣いたのでした。

ローカルニュースと音楽をメインにして、パーソナリティの
キャラクターを前面に出し、リスナー参加型のイベントを多く企画する。
これって、現在の沖縄のラジオで主流をしめているやり方です。
KSBKは、そういう意味で、沖縄のラジオに影響を与えていると
思います。

ただ、人気番組のオピニオンラインのような長丁場の議論番組は
現在の沖縄には見当たりません、やってくれないかなー

琉球・沖縄の歴史を紹介しています。
http://blog.livedoor.jp/ryukyuhattuken/


今日のニュースを語ります。