「介護する息子たち」終章に関する疑問点のメモ

平山亮「介護する息子たち 男性性の死角とケアのジェンダー分析」を再読しています。


この記事は本書の終章について、引っかかった点を私なりにまとめておくために書いています。
したがって後日追記、改変することがありますのでご了承ください。

この本、以前読んだのですが、今度読書会に参加することになったので、復習もかねて読み直しています。
読書会のテーマは終章「息子介護研究が照らし出すもの」です。
前に読んだとき、この終章だけは納得いかない点が多いというか、頭に?がたくさん浮かんでしまい、ちょっとイライラしてしまいました。だから途中から猛スピードで駆け抜けるような読み方になって、なんとか読み切った気がします。
他の章はそういうところはないし、「息子の介護」に焦点を当てた内容は新鮮で面白いんですが。

〈1〉「支配することの志向」とは
P234で平山は多賀太を引用しながら、夫婦関係において「男性が獲得役割を担い続けること、そして、男性自身がそれを果たそうと志向し続けることの、ジェンダー関係に対する意味や効果」が触れられていないとして批判する。
そして、その意味について「その固執は、何よりもまず妻を自信に従属させ、その生活にかかる資源の供給源を握ることで、妻を支配することへの志向を必然的に意味する」(①)と説明する。

ここまではまだわかる。わからなくなるのはその次のくだりだ。
稼ぎ手であろうとする夫の意図がたとえ「善意」によるもの(「妻に良い生活をさせたい」)だとしても、経済的資源の利用のしかたを妻が掌握している(=妻が財布を握っている)としても、妻の生存・生活が夫にかかっている限り、その結果的な意味に違いはない」(②)(「結果的な」に傍点)

「妻に良い生活をさせたい」欲望はまだ保護欲であると解釈して「支配することへの志向」とつなげられなくもない。しかし「妻が財布を握っている」状況であっても、夫にそのような志向があるといえるのかがわからない。

①の文章は、『「固執」は「志向」を意味する』となっていたので、文意は理解できた。しかし②は「善意」のくだりを抜かすと「妻が財布を握っている」状況下での夫の意図がどうなっているかわからないため、「志向を意味する」という叙述とつながらない。だから理解しにくいのだと気づいた。
妻に経済的資源の利用の決定権を委ねるかどうか、夫が決める権利を持っているという前提ならばまだ理解はできる。夫は自分の意志で妻に裁量を委ねていることになるからだ。では、そうでないケース、夫は経済的資源の利用のしかたを決定したいが何らかの事情でできない状況が全くないのだろうか。とてもそうは思えない。親密な人間同士の力関係はそれほど単純ではない。

しかし平山は、以後もこの「支配することへの志向」をたびたび用い、男性学が唱える男性の「生きづらさ」への批判を行う。(その批判の内容についてはここでは特に触れない)

平山による「支配することへの志向」の説明は、「獲得役割に固執する男性」まで主体を限定したときには理解できる。しかし、「結果的」や「意味する」という言葉で、夫が妻を扶養するいかなるケースでも夫にはそのような志向があるかのように述べている、ように見えてしまうのは問題である。

実際、本文中でも「男性」たちを記述するとき「固執する」という文言がついたりつかなかったりし、そこを厳密にしようという意思を感じられなかった。

〈2〉「支配」と「ケア」の使い分け
本書の主な内容は「息子による介護」であり、その理解のためには「ケア」の概念を理解する必要がある。そのため二章ではかなりの分量を割いて、ケア概念についての議論と発展を紹介している。

終章で平山は一通りの男性学批判のあと、「男性とケア」という問題系に取り組むことが、男性と女生徒のジェンダー関係の変にのために必須であると述べる。その理由として、「ケアする側は相手を容易に支配することが可能な位置に立つ」という岡野八代の見解を参照ししつつ、次のように説明する。
ケアすることとは、相手の生殺与奪権がすぐ手元にある状態で、それを行使しないこと」であり、「支配者となる/支配者であることから「降りる」実践に他ならない」(③、P250)

しかし〈1〉に書いた通り、平山は『「善意」だろうがなんだろうが相手のの生存・生活が自分にかかっている』限り、それは「支配することへの志向」を「結果的」に意味するとも述べていた。
「相手の生殺与奪権がすぐ手元にある状態」であるはずのケアの実践において、なぜそれが「支配することへの志向」から逃れられるのか。「生殺与奪権を行使しないこと」と条件を足しただけでは、説明になっていないと思う。

念のため「ケア」概念の議論が紹介される二章を再読したが、どの論者も、平山自身も「支配」であるとか「生殺与奪権」であるとか、そのような論点に基づいた話は出てこない。この「支配」という言葉は、終章で男性学批判の折に、多賀の言う「支配のコスト」などの文言を引いてでてきたものだ。だから、二章でそのような論点が出てこないのは当然なのかもしれない。

なぜ平山が③を断言できるのか、彼が説明するであろうロジックが想像できない。本書の内容から拾えないのだ。
「ケア」と「支配」が排他的な概念として運用できるかのような言い方は、少なくとも終章に至るまでに平山が紹介してきた数々の論者の主張からは導かれないと思う。平山独自の「ケア」概念のように見えてしまう。

結局のところ、〈1〉で問題にした「支配」という概念は、平山の用いる「ケア」の概念と突き合わせることで、より理解が難しくなってしまう。

〈3〉そもそもケアによって支配は回避できるのか
このように理解が追いつかないところのある本書の「支配」と「ケア」の概念であるが、どちらかを達成すれば自動的にどちらかが回避されるような、排他的な概念ではないのではという思いが強い。

少なくとも「ケア」をしながら「支配」することは、できてしまうからだ。
P54で信田さよ子による母娘関係の分析が紹介されている。信田の「母が重くてたまらないー墓守娘の嘆き」は私も読んだ。娘の毎日着る服から食事からの世話をまめに行いながら、一方では「献身的な」世話をすることで娘に「母は私の犠牲になっている」という罪悪感を植え付け、同時に生活能力や判断能力を身につける機会は奪う(そうして娘を自分に依存させる)ような状態は、母から娘への「支配」という他ないように思えた。
相手の生殺与奪を握るばかりか、そのような状況に誘導している。それが母の善意であっても、結果的にだ。

互いに被扶養者であるはずの母娘関係(上記のような事例は専業主婦家庭で起こりがちといわれる)でもこのようになるのに、家族を扶養する男性がケアも重視したとしたら、もしかするとより逃れられない形での支配を家族に課すことになるかもしれない。
平山の定義ではそれは「ケア」と呼べないのかもしれないが。


〈4〉感想
男性による「支配の志向」を批判したいならば、「獲得能力に固執する男性」にだけ的を絞って「支配の志向をやめよ」と述べるだけならばまだ納得できた。しかし、このあたりの話を本書のメインのテーマである「男性とケア」に結び付けようとしたことで、ところどころ論理に無理が生じ、終章の全体が雑な主張になってしまっている印象がある。

^^^追記 9.19^^^

リアクションをいただいたのでコメントします。


〈2〉で引用しましたが、平山は、支配から降りるための実践として「ケアすることとは、相手の生殺与奪権がすぐ手元にある状態で、それを行使しないこと」と述べている。どうやら「支配」には「生殺与奪権を行使すること」という条件があったようです(行使という言葉はここで初めて登場します)
「生殺与奪権を行使すること」は字義通りに解釈すれば「稼いだ給料を妻に一切渡さない」とか「渡さないことをちらつかせて言うことを聞かせる」とかになってしまい、それでは経済DVです。さすがに大半の夫婦の関係には当てはまらない例になってしまいます。生殺与奪権うんぬんはケアに関しての話ですし、それを夫婦の経済的な権力差にあてはめる場合は、比喩としてもう少しマイルドな状況を想定しているのでしょう。

家来さんの解釈はおそらくいい線をついているのだろうと思います。
平山さんに質問したらそういう説明が来そうな気がしました。
もし付け加えることがあるとすれば「相手を不利な状況に置くこと」に対して意識的にであれ無意識にであれ無頓着であること、そのために不均衡な関係を改善しようとしないことも指しているのかもしれません。

でも、家来さんの解釈が当たっているとしても、「生殺与奪権を行使」という表現にからめてしまうと、「悪意をもって妻を虐めている夫」が浮かんできてしまうので、適切な書き方ではないように思います。
「ケア」については夕飯の支度という実生活の事例から抽象的な概念の変遷までみっちりと紹介しているのに、対応する「支配(することへの志向)」の概念の説明はあまりに粗い。しかも「結果的に」とか「行使」とか、センテンスごとに条件が追加されていく。
男性学批判のための武器ともいえる大事な概念の割には、読者が踏み込んで解釈しないといけない。つき合い切れないという気持ちが正直なくもないです。

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