やまさきまりこ / 山﨑 真理子

M5/QUANTA代表。変容の証人・観察者であり、リアル実践者。「この世で遊び、表現す…

やまさきまりこ / 山﨑 真理子

M5/QUANTA代表。変容の証人・観察者であり、リアル実践者。「この世で遊び、表現する」「渦(vortex)という生き方」 フランス生まれ。出版社に編集者として10年間在籍後、独立。2014年M5起業、2019年QUANTA創立。 https://m5tokyo.com/

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エネルギー循環のための器、ありますか?

ちょうど1年ほど前に書いた記事(『インボイス制度から感じること』)でも触れたように、これからの風の時代では私たちはひとりひとりが「消費者/taker」から「生産者/giver」になるのだと感じています。ひとりひとりが自立し、自分らしい生き方を叶えていっていい豊かな時代。 土の時代では、お金というエネルギーの循環を効率よくするために誰もが銀行口座をもっていたように、風の時代では誰もがメディア(オウンドメディア)を運営しているかもしれない時代。そしてSNSを通して横断状に繋がり

    • “ここじゃないどこか“症候群

      私たちは「自分との向き合い」というものを始めると、自分は“ここじゃないどこか”にいるべきなんじゃないか、という想いに駆られることが往々にしてあります。特に向き合いを始めたばかりの頃など、そんな感覚が湧き起こるかも知れません。 私も例に漏れず、“ここじゃないどこか”症候群に罹患していました。瞑想時に思い出したヴィジョンのひとつに、どこか海外にある見晴らしのいい高台、芝生が広がるその敷地のなかで、老若男女、さまざまな人種の方々と共に語らい合う、そんな一幕が見えます。お互いの叡智

      • 多面体でできている私たち

        恋愛相談が盛んだった20代。とある友人から相談を受けました。私の友人のひとりでもあったAくんのことが気になる、と。どうやら彼に適当にあしらわれた女性たちがいるという噂を聞きつけたらしく、言葉を選ばず直訳すると「Aくんが“遊び人”であるか知りたい」という相談でした。本人の潜在意識では他にもさまざまなブロックがみてとれたので、そこはいろいろあるなぁとは思いつつ、ひとつ確かなことは、誰かの噂ほど当てにならないものはない、ということでした。「その他大勢の女性にとって彼がどうか、はなん

        • 色を纏うということ

          まさかの再び4週間ぶりの投稿です。2024年もまだ1ヶ月余りしか経っていないとは思えないほど濃密。というか時間感覚がずっと変な感じです。数時間が数日分の濃度に感じることも。うげっ。みなさんはどんな体感があるでしょうか。 * 2020年頃、自分自身に還るというプロセスの過程で、私は次第に鮮やかな色合いの服や靴などを身につけるようになりました。クラニオセイクラル・バイオダイナミクス(頭蓋仙骨療法)を学んでいたとき、講師の方が「ボディワークを深めていくなかで“色”を着るようにな

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        エネルギー循環のための器、ありますか?

          自分への信頼を取り戻すタイミング

          前回、こちらで記事を投稿してからまさかの4週間もの月日が流れておりました。年も明けておりました。毎日投稿するぞ!と意気込んでいた私はどこへやら。気を改め、執筆に対して本気で取り組もうと心に誓うナウです。 * 不安や恐れ、疑念など、そのようなエネルギーが年始から高まっていると感じています。世に湧き起こる、さまざまな事象は私たちに何を伝えているのでしょうか。今まで見えなかったものが視えるようになり、感じなかったことが感じられるようになり、よりクリアに、より風通しがよくなる道筋

          自分への信頼を取り戻すタイミング

          今日が“あなたの一生”だとしたならば

          私たちは大きく変わる、という転換期を生きています。変化の流れは感じているでしょうか。2023年1月の自分と今の自分。どんな変容を遂げているでしょうか。仕事やプライベートなど、現在の生活環境に何を感じますか。家族や友人知人との人間関係はどうですか。唯一無二の自分という存在の声を聞きながら、日々を過ごしていますか。 今日が“あなたの一生”だとしたならば、あなたは何をしますか。どういう感情で一日を始めるでしょうか。深く呼吸できていますか。肉体の感覚、脈打つ鼓動、手足の先まで神経が

          今日が“あなたの一生”だとしたならば

          いま自分はどこと繋がっているのか

          いま自分はどこと繋がっているのか。 これは私たちが今後、常に自分自身に問いかけ続けていくものだと感じています。 * きっと私の文章を読んでくださる方々には同じような嗜好をおもちの方も多いと思うのですが、私は小さい頃から人間の心理、宗教、そして哲学というものに漠然とした興味をもってきました。 敬虔なクリスチャン家系に生まれ、日曜には教会へ行き、家庭での食事の前と眠りにつく前には必ず「祈りの時間」がありました。幼稚園の頃は疑問にも思わなかったことが、小学校へあがる頃には、そ

          いま自分はどこと繋がっているのか

          誰もが立ち返る「母」との関係性

          どこからどう描写していいのかわからず、一段落書いては消して、を繰り返していました。 私たちは誰もが母の胎内で数ヶ月間を過ごし、そこで胎児として充分に育まれ、そしてこの世に生を受けるに至っています。そして胎児の頃から多大な影響を受け、その後の人生の基盤を作ってきています(そんな影響を受けることさえ、自分の魂が事細かに選んできているわけですが)。母との関係性は、私たちが「自分を知る」「自分に還る」という悟りのプロセスにおいて、誰もが必ず立ち返ることになるテーマであると感じていま

          誰もが立ち返る「母」との関係性

          私たちは現実を見たいように見ている

          私たちは見たいと欲する現実を見ていきます。そこにどんな意味をつけるのかは、自分次第だからです。 * 魂が意図する方向性、ベクトルというものがあります。絶えず、そこへ向かい続けているという流れ。それは私たちが今世、さまざまな出来事や体験を通じて学びたいと思っていること、体験したいと思っていること。それを学ぶために、わざわざいろいろな出来事を起こしているのです。 その仕組みについて理解ができたとき、私たちは独りよがりのパラダイムから抜け出すことができます。自分自身を不運や病

          私たちは現実を見たいように見ている

          目に見えない有機的な居場所

          2011年の冬、心身共にやつれていた私は療養のために旅に出た。友人が住む、フランス領ポリネシアにあるボラボラ島へ。現地で子育てをする友人と共に保育園を訪れたり、地元の人たちと食事をとったり、日本とはまったく異なる生活習慣のなかで繰り広げられる、普遍的な日常に触れて過ごした。 日本における「当たり前」が大した意味をもたないような土地。「家」と「外」の境というものが曖昧で、ドア、トイレやシャワーの仕切りなどもあるようなないような空間。境界線がとても曖昧な土地では、子育ては近所の

          目に見えない有機的な居場所

          遠い遠い、星の彼方の転生記憶

          小さい頃、発熱でうなされると決まってみていた夢があります。それは宇宙のど真ん中で「永遠を知っている」という感覚のなか、ずっと小さな乗り物にのって、ぐるぐると回り続けている映像。当時好きだった東京ディズニーランドの「スペース・マウンテン」のなかのようなのだけれど、ひとりしか入れない小さなところに入っている。熱を出すと決まってその映像がみえるのが小さい頃はとにかく怖くて怖くて、あるとき(と言っても既に中1の頃)は、夢遊病者のように部屋から飛び出し、家族のいる部屋へ実際に逃げ出した

          遠い遠い、星の彼方の転生記憶

          デトックスは穏やかに、ご自愛バイブスで

          蠍座の真髄に触れるような禊のシーズンなのでしょうか。体調を崩す方が多いようです。発熱も身体がデトックスするよ、という合図。下痢も嘔吐も、身体から不要になった古い毒素を排出しようとしている証拠。 ときに身体からの声は、私たちに必要なシフトを促してくれます。それは今まで見てこなかった世界線にあることかもしれません。これから生きていくときに、もう少し軽やかに生きやすくなれるよう、身体が全力でサポートしてくれているのかもしれません。 それでも渦中にいるとどうしても目の前のツラい現

          デトックスは穏やかに、ご自愛バイブスで

          移ろいゆく「心地よい距離感」を許すとは

          このタイトル画像を選ぶのに40〜50分も時間をかけてしまった。木が互いのスペースを保ちながら共存している。そんな1枚を探すのにアルバムを遡りすぎて、思い出迷子になるところでした。 私はモノを覚えるのも実行するのも早いけれど忘れるのも早い。昔のことを色々覚えているほど記憶力のキャパシティがないようで、執筆にあたり、過去のエピソードを思い出すのがまぁまぁ大変。そんなとき今まで撮ってきた写真は自分自身の記憶を辿る貴重な手がかり。ということもあり、今日は過去の写真がたくさん入ってい

          移ろいゆく「心地よい距離感」を許すとは

          目に見えない“制限”を外すとき

          自分のなかに迎え入れていないもの。じつは無数にあるのでは、と日々感じています。だから常日頃から「じつはアリなんじゃない?」という視点であらゆることに接することにしています。これはおそらく思春期を海外という日本の集合無意識が通用しない土地で過ごしたことによる影響も多々あり、自分のなかにある癖づいている部分かもしれません。それはいずれ、常に中庸である、という意識といつの間にか密接に関連しているなぁと気づくのですが。あ、そしてもちろん「じつはアリなんじゃない?」スタンスをもってして

          目に見えない“制限”を外すとき

          「嫌い・憎い・許せない」の裏にあるもの

          自分自身との向き合いという過程には、大きく分けると2種類のフェーズがあるように感じています。ひとつは、前半で訪れる自分自身への深い癒しや許しとなるようなフェーズ。そしてもうひとつは、後半に訪れる、というより、生涯をかけて定期的に“イマココ”の自分と向き合い、その都度、調律していくことになる、自分自身の魂の願いを軽やかに叶えるためにコンフォートゾーンを広げ、さまざまなことが「可能である」ということを体験していくためのフェーズ。それぞれの向き合いにおける性質が異なるため、そのため

          「嫌い・憎い・許せない」の裏にあるもの

          エネルギーの感覚が開くとき

          私たちがエネルギーレベルで「開いていく」ことを感じていくなかで、外と内の境界線が曖昧になっていくことを感じることも少なくないと感じています。それは、受容のプロセスにおけるひとつの通過点のようなものかもしれません。外と内というエネルギーの領域はとても繊細で曖昧なグラデーションで成り立っています。 2018年以降、私のなかで「感覚的に開いていく」ということが向き合いのなかで深まるにつれ、外の情報に敏感になりすぎて「すべてが入ってきてしまう」という感覚になった時期がありました。そ

          エネルギーの感覚が開くとき