意識高い系の正体

「意識高い系」という言葉。
主には皮肉として使われ、「意識が高い」と「意識高い系」は別のカテゴリとして扱われている。自分の能力やキャパシティを超えた発言などを指す。と思われる。

あまり使われなくなった語彙かもしれないが、一時期独立や起業、ボランティアなどの慈善事業に積極的に参加する人間に対して向けられていたと思う。それらはチャレンジ精神や慈善行為であり揶揄されるようなことではないが、それに行動が伴わない人間に向かって「意識高い系」という皮肉が投げられていた。

ふと、最近の人権運動の高まりを見ていると別の側面もあったのではないと思うようになってきた。

意識のアップデート

人間は他者と感情や考えを理解することはあっても、ネット上のクラウドのように同期や共有はできない。だからこそ一定の規範・価値観を作り、そこに、少なくとも表面上は、従う事で他者と共存をしてきた。

しかし、規範・価値観とは社会情勢や人間関係が変化すればいつまでも同じではいられず、時間とともにアップデートが必要となる。10代と30代では付き合い方は変わるし、江戸時代と現代では社会構造も違うように。

それらは為政者が明文化して公布するものではなく、あくまで世間などといった捉えにくいふわふわとしたものの中で流れ変化していくもの。常に流行にアンテナを張り、情報を取得することに敏感でなければ価値観の意識アップデートしていくことは難しい。

アップデートできない人間を「老害」などと言ったりもするが、果たして揶揄した人間は本当に意識アップデートができているのだろうか?

価値観の内面化

一度自分に植えつけた価値観を覆すのは難しい。前段でも言った通り他者の意識と自分の意識を同期・共有するのは無理なのでそれが本当に時代にあった正しさを担保されているかは誰にもわからない。

一見最新の価値観に見えても、規範を作るモノはは捉えにくいふわふわとした空気が源流なので微妙な食い違いは常にあるだろう。しかし、自分の意識を常に疑い続ける事は生きてる上ではストレスが強く、また、社会生活上あまり意味のない行為であったりもする。

そうやって緩やかに意識アップデートの頻度は落ち、今信じている規範・価値観が常に正しいのだと錯覚してしまう。これが老害化のメカニズムだと思う。

価値観の微妙なズレ

やっと話が「意識高い系」に戻る。
「意識高い系」とは言ってることと行動してることのギャップを皮肉る言葉で、「意識が高い」とはそのギャップを埋めた人に送る賛辞だと自分でも思っていたが、実際はこの意識アップデートの差異が正体なのではと思い始めてきた。

「意識高い系」の言葉はなんだか胡散臭い。真実味が薄い。完全に僕の主観で申し訳ないのだが、それは行動が伴ってないからではと考えてきた。
だが、そもそも言葉を発した時点で行動してる必然性はないのだ。後から行動を伴わせれば良いだけで言葉を聞いた時点で胡散臭さを感じるのはおかしいでは?と。

ここで感じる胡散臭さは、意識アップデートの食い違いからきてるのかもしれない。情報アンテナの感度からアップデート内容に微妙な差異が発生していて、それが違和感となって胡散臭さに転換されていたのだ。

もちろん相手のアップデートが最新で、自分のアップデートが遅いこともあるだろう。そうした差異が言葉に胡散臭さを感じさせ、合致しない価値観を「意識高い系」として揶揄し、自分の意識が正しいのだと言い聞かせてきたのかもしれない。

まとめ

現代はインターネット環境が普遍化したおかげで情報へのアクセスが容易になった。マスメディアの情報だけでなく様々な角度から情報を得られるようになった反面、一般人の処理能力・キャパシティを超える情報の氾濫も起きている。

これらからアップデートに必要な情報の取捨選択をするのは容易ではない。必ずしも社会生活に役立つと約束されているものでもない。それはストレスを感じる行為になることもあるだろう。

しかし、「意識高い系」や「老害」に揶揄されることを恐れるからこそ行わなければいけない。

煩雑な社会で生き残るために自分の価値観はとりあえず疑っていなければならない。

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