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トランス女性と男性差別 ~同じ種の愚鈍の萌芽~


 トランス女性に関しての議論は、女子大学の件や女子の着替え室、浴場などといった場面の空間への受け入れが論議されているものであるが、賛成側と反対側で二分するかのような状況である。
 確かに、トランス女性と一口で言っても、肉体的にはまだ男性に近い人もいれば、かなり女性に近い人といったように、簡単に分けきれないような話もあれば、受け入れる側も従来の慣習的な面からの忌避感情もあり、簡単に解決させることも難しい。論争が紛糾するのもやむを得ない面もある。

 ただ、議論をしている中で、トランス女性に対する差別的な言動もかなり見受けられる。差別的な主張をすることそのものは受け入れられるべきではないとされるが、それが一部フェミニストの中などリベラル側から産出される事態に至っていることから、厄介さをかなり深めている。
  その異様な光景をみての懸念により、研究者などの有志をあつめてトランス女性に対する差別に反対する署名運動などを展開するような事態まで発展している。

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 トランス女性に対して差別的な論理を追いかけてみていたのだが、私が見るに争いの本質には男女差別で語りつくされたような論点がそのまま出てきている部分が多い。
 しかし、研究者レベルであってもその現実を否定し、あくまでトランス女性のみが問題になっているとごまかしていることや、そもそも認識自体がないのではという感じがする。


 

 これから紹介するのは、別の種類のはずと考えられていた種が、実は同じ種であって、芽が育っただけだったというお話である。一つの事例を基に、その中身を明かしていくこととしよう。


1 レズビアンバー「ゴールドフィンガー」のトランス女性入店拒否とその反応


レズビアンバーがトランス女性の入場拒否→謝罪 LGBT当事者間の差別めぐる議論広がる
https://www.buzzfeed.com/jp/sumirekotomita/gold-finger-1

 本件事例は、新宿にあるレズビアンバー「ゴールドフィンガー」が、長年トランス女性を入店禁止にしてきた。このお店に今年4月、トランスジェンダー女性のエリン・マクレディ氏が入店しようとしていたところ、入店を拒否されたというわけである。
 氏は、ホルモン投与も行われており、性別も女性に既になっているにもかかわらず、入店を拒否されたわけである。これに対して店側に氏及び友人らが抗議したところ、お店は謝罪し、入店が許可されるようになったものである。

 この件に対しても当然に反発はあるのだが、以下のような意見をひとつ乗せることとしよう。





 フェミニズムの中では、比較的信頼性のある方ではあるが、驚くことに犯罪者抑止のための特定属性の一律隔離論という強烈に筋の悪い論理が展開されているわけである。おそらく、対象属性が外国人、民族、女性、障碍者などといった者や性犯罪というカテゴリー以外だったら、かようなことは言わないだろう。
 彼女としては、女性を保護するという立場から発したのだろうというのは、容易に考えることはできる。フェミニズムの一面としては否定するつもりはない。

 もちろん、これに対しては当然に行われる反論が待っている。



 当たり前なのだが、従来の判例、理論的構造を考えれば、一律に属性を隔離すること事態まずいことであるのは論を待たない。リベラル側の基本としては、ここを譲ることは自死を意味するに等しい。にも拘らず、忘れてしまったのか?というほどの論理展開をしてしまったのである。

 さて、この構造、どこかで見たことはないだろうか?

2 男性とトランス女性の共通項


(1)男性(の肉体)を隔離するということ


 察しの良い方は既に気がついているだろうが、トランス女性の話で出てきた話はかつて女性専用の街や女性専用車両で用いられてきた理屈と同じである。

 性犯罪に巻き込まれることは女性が多く、訴えを周囲に主張することができないことも多く、事件のせいで他人に対して恐怖心を抱いてきた。それ故、女性にはそのようなことを避けるようにするために、男性からの隔離を求めることを肯定してきた歴史がある。

 これに対する反論としては、先に上げたツイート並びに多くの在野の人々が過去の人種差別論などの類似性を強調して許すべきではないという発言を多くしてきた。

 本来ならまともな見識のある学者の人々や知識人が積極的に隔離措置の忌避をする流れに同調するべきだっただろう。だが、結果は下記のようなフェミニズム学者や社会的地位のあるものたちの発言・イベント出席の記録通りである。(数が多いので基本的には無視して次の段落に行ってもらってかまわない。積極、消極あれど、中身はほとんど同じようなものである。)

















(2)誰もが自分が考えたようにしてくれるわけではない。


 男性においては権力勾配だの非対称性だの何か峻別できるような言い訳を用意しているのだから、トランス女性とは違うと向こう側は言い出したいだろう。
 だが、自分たちの見解が他人も信じてくれるとは必ずしも決まっているわけではない。もしくは、信じてはいるものの、自分たちのような考え通りにすべて行ってくれるわけでもない。

 現に、トランス女性を(肉体としては)男性として判断することにより、男性の時と同じように権力関係を判断するようなこともあるだろうし、肉体が男性のものなら、性欲も男性のものと同じであるということも考えられているだろう主張も見られる。
 男性という肉体の共通項があり、女性の権利や性的な側面が侵害される危険性がある。この類似性があるからこそ、同じ手段や論理を用いて権利を訴えているに過ぎない。ツイッターフェミニストなどにとっては、すでに認められた権利だと思われているからだ。

 一度、何かを認めてしまったとき、同じようなものであっても認められるのではないだろうか?と考えるのは不自然なことではない。更に類似の事例で権威的な人物がそろって肯定しているのが見受けられるのなら、一般の人レベルでも問題ないと考えたとしても、同様である。

 人間の心理や類似事例における懸念を予想できず、いたずらに自分たちの狭いアカデミックな見解を盲信している故に混乱も起こっているようだが、この程度のことを想定していないこと事態、愚鈍であると言える。
 また、トランス女性差別に抵抗するために論理を構築しようにも、今度は自らの主張を顧みること、従来の支持者からの反発も考慮しなければならないが、自身の論理との矛盾の指摘や支持の低下が起こる懸念もある。まさに八方ふさがりなのだ。


3 まとめ

 結局のところ、トランス女性の争いについては男性差別と同じ種を蒔いたことから出た芽なのである。
 同じ種からでたものであるにもかかわらず、同じ悪いものだとわからない者、色や形が違うから峻別すべきという者、同じ種と知りつつも知らないふりをして芽の違いを説明している者。実に不誠実で愚鈍な者たちの滑稽な光景である。
 芽のうちに摘むことができなければ、やがて大きな毒をもつ木に成長するだろう。そこまで大きくなった時、愚鈍なものたちの今までの選択が問われることとなる。

その他参考



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