情緒的なものに忌避感を覚えてしまったこと。

 数日前に、シリアにて撮影された写真が大きな反響を呼んでいる。空爆にあった建物のがれきのなかから、幼い少女が自分の妹を落ちないように手で必死につかんでいる光景を映し出したものである。手をつかんでいる子はそののち亡くなったとのことだが、この写真は世界の人々に大きく伝わることとなった。



 皆、この写真を見て何を思うだろうか? 戦争の悲惨さを味わったのか?子供に対する憐憫の情を感じたのか?反戦の感情を感じることでもあっただろうか?写真を撮ったものに対して、写真よりもやることがあるのではないか?

 これらの感情を否定する気はないし、感情のパターンとしては普通にあることだと思う。だが、私はこの報道を聞いた時、何とも言えない忌避的な感情を抱いてしまった。

 こういう風に発言をすると、何か冷徹な人間にも思われるかもしれないが、決してそうではない。むしろ、ある種の熱意や感情があったからこその忌避感情なのである。

 マスキュリズム関連をやっていると何度も出くわすことなのだが、情緒的なものとルールなどの対立が原因である。本来であれば、ルール上はできないことや倫理、道徳などから禁止されているようなものをいとも簡単に打ち砕いてしまうからだ。場合によっては、重大なレベルのものも打ち砕いてしまうほどだ。

 ひとつ例を出すとするなら、山尾しおり議員の例の発言だろう。

 ワードはだすことも嫌なので、皆様の記憶と調査によって補完していただきたい。従来なら、国会議員の立場でありながらの過激な発言であり、品位を損なう不適切な発言であるといってよかったであろう。

 だが、現実は知っての通り、多くの生活している母親や子供のことを考えているものであり、彼女たちのことを考えていない国はおかしいという大きな賞賛をもって迎え入れられたわけである。多くの著名人の賛同することもあった。

 その後の過程の中で、本来予算に組み込まれているようなものが彼女のおかげであるような言説が流れることもあるだけではなく、ついには流行語大賞にまでなってしまったのだ。流行語大賞は犯罪や悪意を助長するようなおのは本来除外するという暗黙のルールがあったのだが(ナマポやオウム関連はいい例である)、実際にワードを起因とした事件が起こったとしても、顧みられることがなかった。(逆に疑問を呈した有名人が炎上するようなこともあった。)

 単に、不快感や過激な言葉だからというものではなく、既存のルールなど様々なものを破ってしまったわけだが、何ら反省を促すこともなく、大きな賞賛まで与えてしまった。感情的でも、何か理由(と許される属性や対象)があるのなら、過激な言葉も許されるだろうといった誤った情報まで与えることもあったといえる。

 これは、ほんの一例である。マスキュリズムの世界では、情緒的なもので色々なものを壊していくことが数多くはびこっている世界である。色々見てきてその都度おかしいと指摘してきたわけではあるが、そのたびに情緒的なものをまざまざと見せつけてくれる。そして、似たような話が何度も通用するのを見ることが多い。

 もちろん、正しい使い方がされていれば、情緒的なものもすごくよい効果をもたらすことも否定はしない。ただ、情緒的なものも負の面があることは否定できない。自分たちが正しいと思い込み、よく考えもしないで突き進んでしまって、よからぬ結果を起こすことも時にはあるだろう。その時、誰が責任を取ってくれるのだろうか?誰が反省してくれるのだろうか?そもそも本当に省みてくれるのだろうか?

 マスキュリズムでは、こうなった時に反省も何もなく、逆にどんなにおかしなことがあっても賞賛をもって迎え入れられる世界である。
 この負の側面の恐怖について、何度も訴えてきたわけである。場合によっては、かなり強い言葉を使って非難もした。結果は、言わなくてもわかるだろう。

 情緒による扇動と行為の実現の積み重ね、破戒が私に忌避感情を産ませる原因なのである。

 犠牲になった子供たちを貶めたり批難する気はもちろんない。本件において、悪い結果を引き起こす可能性も低いのかもしれない。しかし、言い知れぬほどの忌避感を感じるような思いをどうしても抑えられぬ故、この記事を書くに至ったわけである。

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