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男性学の本を読んだ感想と、進捗性。

 数か月前に読んで感想を書くと言ってはいたのだが、ここまで書かなかったので、忙しい時間の合間ではあるが男性学に関しての本の感想でも紹介したいと思う。

 読んだ本は、「男性学 (新編 日本のフェミニズム 12) 発売日: 2009/12/22」である。

 結論から言うと、これほど学問として進捗性がないのか?と、言わざるをえないものもないといえるほど初歩から話が進んでいないという感想だ。

 内容としては、何人かの人物からの男性学に対する内容が寄稿されているような形のような感じの後世になっており、仕事面、男性性という側面、男性の生きづらさといったものが主だった話である。

 マスキュリズム関連の内容としては初歩的かつ総論的な部分ではあると思う。だが、初歩以上のことはほとんどなかった。

 インターネットの言論環境では、男性差別は実に多種多様であり、社会的制度、報道、商業的なサービス、公共空間での排斥、生きていくうえでの選択肢の狭さなど、様々な面で議論が活発化している。アカデミズムがなくても十分に知りうることはできるかもしれないくらいだ。

 だが、他の男性学の本の表紙や評判を聞いてはいるが、男性学の本にはそういった多様性や多くの議論がない。この本についても、1980年代や90年代のかなり古いものもあるが、それから数十年たっていても、ほぼ全くと言っていいほど話が進んでいない。

 加えて、本を読んでいると男性に対して内面的にもっと楽になっていいといったものや、男性性を降りていいというような内容は見受けられるが、降りた先にどうなるかや、降りた際の保障などといったものはっきりといって無に等しい。何も考えてはいないけど、とにかくやめよう、つらくなったら休んでもいいんだよというなんだか自己啓発関連で見るような話の領域から出ていない感覚だった。

なぜ、ここまで発展性がないのか?

 これだけ年数がたっているにもかかわらず、なぜ話が全然進んでいないのか?インターネットの世界のレベルにすら劣るのか?

 おそらくではあるが、敢えてやってないのだと思われる。

 インターネットレベルですら、色々な用法やデータを用いて既存フェミニズムのおかしさや男性差別論の論理的な構築をしているようなことをしているのだから、アカデミズムがそういったことをするのは当然できるはずだし、それが仕事なのだからやらないといけないはずだ。

 だが、ありえないほどできていない。理由はいくつか考えられるがフェミニズムの影響があるのではないだろうか?

 噂では上野千鶴子が男性学を作らせたというような話がある。どこまで事実かは知らないが、本当なら合点はいくだろう。

 男性の利益というものが認められてしまえば、女性というのは直接利害関係にかかわるのは言うまでもない。自分の首を絞めるようなことも場合にはあるだろう。発展させすぎて不利益になるくらいなら、発展を敢えてさせないということも十分ありうる。

 男性に対する内面的な自省や男性性を降りることを中心に語っているのも、男性が男性である故に求めてきた地位などからいなくなれば、その分女性がそこに入れる余地が増えるし、あくまで誰かに求めるような運動でなければ、不利益ができるようなケースは少なくなる。(もちろん、男性性を降りた後の保障なんてものは何もない。上昇婚などの傾向を考えればわかりやすいだろう。)

 簡単な考察で終えるが、男性学の発展性のなさは、男性のことを考えているようでその実は別の誰かの利益を目的としているのが透けて見えるわけである。

 

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