見出し画像

その夜の戸山ハイツ①

 嵐山光三郎の「口笛の歌が聴こえる」は、60年代の東京を舞台にした著者の自伝的な青春小説で、この時代のスーパースターたちが実名で続々と登場するが、これが実に痛快で、興味が尽きない。三島由紀夫、澁澤龍彦、寺山修司、檀一雄、赤瀬川原平、横尾忠則、など、誰もが知る文化人から、有象無象のアングラの怪人たちまでが入り乱れ、、まさにオールスターキャストで、安田講堂事件や新宿騒乱事件などで揺れ動いていたこの激しく破天荒な時代を、生々しく描き出している。
 
 それは、東京オリンピックの2年後の1966年、昭和41年4月のことだった。嵐山光三郎自身である主人公英介に、唐十郎から一本の電話が入る。大学を出たばかりの英介は、当時、編集者として平凡社に入社した頃で、電話は、「腰巻お仙の百個の恥丘」という芝居をするから見に来てほしい、というものだった。ただ、この芝居、ただの芝居ではなかったのである。

 唐十郎は昭和15年に東京で生まれた。当時26歳、すでに自らの劇団「状況劇場」を結成しており、いくつかの公演を行っている。

「一九六〇年代は、『状況劇場』、『早稲田小劇場』、『天井桟敷』などの小劇場系の若手劇団が数多く誕生し、新劇をはじめとする既成演劇に反旗をひるがえして、現代劇の新しい形を模索しはじめた時代だった。」 (「日本の現代演劇」岩波新書 1995)

 と、扇田昭彦は書いているが、確かに、この時代、綺羅星のごとき才能がまさしくアンダーグラウンドな空間で蠢き出していた。中でも、「天井桟敷」の寺山修司、「黒テント」の佐藤信、「早稲田小劇場」の鈴木忠志と共に、アングラ四天王などと呼ばれていた、そのひとりが唐十郎であった。

 その頃、唐十郎によって結成されたばかりの状況劇場は、いわゆるハプニング的なパフォーマンスを繰り広げており、街頭劇「ミシンとこうもり傘の別離」を数寄屋橋公園で行って警察沙汰にもなっていたばかりであった。手術台の上で「ミシンとこうもり傘」が出会えば、それはもちろん、ロートレアモンなのだが、ここではそれが「別離」となっている。この公演は新聞などにも取り上げられたものの、お騒がせな「自称演出家」などと揶揄されていた。要するに、胡散臭い人騒がせな連中と思われていたわけである。実は、「腰巻お仙」も、この街頭劇の流れをくむ野外劇で、公演場所は、何と戸山ハイツ浴場の前のプール跡のある空地、この広大な野外空間は「灰かぐら劇場」と名づけられた。むろん、上演許可など取ってはいない。
 
 すでに過去にも書いたことだが、戸山ハイツの敷地は、もともと明治期から戦前にかけては広大な陸軍用地で、明治7年に陸軍戸山学校が開校され、大正3年に近衛騎兵聯隊が開営、大正10年には、東京陸軍幼年学校、昭和4年には陸軍軍医学校が作られた、複合的な一大軍事拠点であり、大久保は軍都だったのだ。戦後、一時的に進駐軍に接収されたものの、その後返還され、その広大な敷地を生かすべく作られたのが戸山ハイツで、昭和24年に建てられた1052戸の木造平屋住宅を嚆矢とする。その後、建物の老朽化などの理由から、昭和43年に建て替え作業が着手され、昭和51年までに中高層団地3019戸が完成した。これが、現在の戸山ハイツである。
              
 唐十郎自らが作成したという公演パンフレットには、上演場所の地図が掲載されており、そこには、「戸山浴場」「プール」などの位置が明記されているが、戸山浴場もプールも、現在ではもうすでに存在しない。「腰巻お仙」の上演は、この敷地で住宅が建て替えられて高層化してゆく直前、木造の平屋住宅が立ち並んでいた最後の時代だったのである。
 そこで、昭和43年の住宅地図を確認してみると、確かに箱根山の西側に戸山浴場とプールが見て取れる。戸山浴場は、現在の25号棟のあたり、プールは19号棟のあたりに存在していたようだ。

画像1

 「1970年代の再生(建て替え後)、約40年を経た都内の団地の原点ともいえる戸山ハイツの現状と今後の展望に関する調査研究」(公益財団法人 アーバンハウジング 2014)によれば、この浴場は、もともと、昭和24年(1949年)の秋に建設された。当時の木造平屋の各戸には風呂がなく、居住者の強い要望によって誘致されたのだという。
 戸山ハイツは、その後の昭和43年以降の建て替え事業で、敷地内に、スーパーマーケットや集会所といった施設は作られたが、戸山浴場は不要となり消えてしまった。高層化された団地の各戸に浴室が完備されたためである。もちろん、というべきか、当然、というべきか、浴場に隣接する敷地に残っていたプールもとり壊されてしまったようだ。
 当時のプール跡、つまり、現在の19号棟は、箱根山の麓に位置している。もちろん、プールには水は張られておらず、四角い巨大な穴がぽっかりと口を開けたような、石切り場のような異様な風景だったと考えられる。進駐軍に接収されていた時期には、実際にプールとして利用されていたのだろうか。

嵐山光三郎は次のように書いている。

 「戸山ハイツのプールは、元米軍のプール跡で、巨大な汚水処理場のようだった。タイルははげ落ち、コンクリートはぼろぼろに崩れていた。プール中央に、椅子がおかれ、そこから五メートルはなれたところに、男が、パンツ一枚で寝ころんでいるのだった。
 プールの周辺は一面の闇だ。
 かすかな月明かりをたよりに英介が歩いていくと、雑草の暗がりから、別の男が現れた。そいつも、どうやら、唐の芝居を見に来る客のようだった。見知らぬ男と連れだって無言で進むと、今度は、丘の中腹より、また、不気味な男が現れた。それも客なのだ。また、そいつと連れ立って無言で進む。集まってくる連中は、どいつもこいつも、無頼者の社交会を見物しようとする悪意の客ばかりだった。」
                 (「口笛の歌が聴こえる」1988 新潮文庫)

 戸山ハイツ、それも、箱根山の麓あたりは、今でも、木々がうっそうと生い茂って日光を遮り、昼でも薄暗いことで知られる。「昼猶闇き杉の並木 羊腸の小径は苔滑か」というのは、本家の箱根山を歌ったものだが、大久保の箱根山も決して本家に負けていない。昼間だというのに幽霊を見ただの、首吊り死体がぶらさがっていただの、そんな目撃談が後を絶たないらしい。
 戸山ハイツは、その箱根山をほぼ囲むようにして形成されている。というよりも、千代田区の中心に皇居が鎮座するように、戸山ハイツの一角には箱根山がそびえており、近づく者に畏怖の念を起こさせる。まさにピクチャレスクな風景なのである。
 まして、昭和41年当時の、夜の戸山ハイツの光景といったら、まさに闇深い迷宮だったろう。その迷宮の一角へ、どこからともなく集まってくる怪しい客たち。ぞくぞくするような「無頼者の社交会」の始まりが見事に描き出されている。

画像2

 同じ頃、写真家の加藤嶺夫が戸山ハイツで撮影した写真がある。「東京 消えた街角」(河出書房新社 1999)という写真集に収められた、「昭和43年3月10日 都営住宅戸山ハイツ」という一葉である。キャプションには、「戸山2-32先から撮影」というデータが添えられている。この住所は現在のもので、現在の32号棟、つまりは、明治通り側の、窪地を見下ろす場所から撮ったものだということがわかる。手前にわずかに写る小さな公園は、若草児童遊園地で、その脇を、写真の奥の方へ道が伸びており、その左手には、平屋の住宅が軒を連ねている。この平屋も、現在では、22号棟など、5階建ての団地に様変わりしている。画面のさらに奥には、その住宅を見下ろすように、箱根山とその山頂、そして、その右隣、山の斜面の中腹あたりから開けた場所に戸山教会が建っている。
 戸山ハイツの敷地を含む現在の戸山公園は、明治通りの西側へも広がった、戸山が原と呼ばれ、想像を絶する広さを誇る土地だった。陸軍用地として利用される以前は、もともと、尾張徳川家の下屋敷、戸山荘と呼ばれた、小石川後楽園のような巨大な回遊式庭園だった。園内には、様々な趣向で東海道を再現しており、池や滝、そして、山、と、すべてが人工楽園、パノラマ島であり、まるで現在のテーマパークを先取りしたような空間であった。その中に、小田原宿を原寸大で再現した「御町屋」があったが、その景観の名残りのひとつが、今の箱根山であり、当時は、玉円峰と呼ばれていた人工の山であった。現在の標高は44.6メートル、山手線内で最も高い場所であると言われている。
 戸山教会は、もともと戦時中の将校集会所だった施設を基に、戦後に建てられた。今では、幼稚園として利用されている。土地そのものは箱根山の方が高いものの、こうして写真を見る限り、教会の尖塔の十字架は、箱根山よりも高い位置に達しているようにも見える。

画像3

 当時の住宅が平屋だったので、箱根山は、戸山ハイツのどこにいてもその頂上まで見上げることができたことが、この写真を見るとよくわかる。いや、戸山ハイツを見下ろすように箱根山がそびえていた、というのが正しいのかもしれないほど、その存在感は圧倒的だ。それが、昭和40年代の高層化により、箱根山はその姿を団地の中に埋もれさせてしまった。迷路のような団地をさまよっているだけでは、箱根山の存在には気がつかないということもあるし、それが、団地の棟をひょいと曲がると、いきなりその姿を現したりする。まして、現在の箱根山の斜面や麓には、樹木が暑苦しいほどに生い茂り、山の存在を覆い隠しているいるので、ちょっと見ただけでは、それが標高44.6メートルの山だとはにわかには気づきにくい。

 芥川賞作家・柴崎友香の小説「千の扉」は、戸山ハイツを舞台にしている。団地の現在と過去が重層的に折り重なり、不思議な余韻を残す作品だが、団地の地形についてこのように書いている。 
 
 「東京の土地は細かな高低差が入り組んでいるのが特徴だが、この広大な団地の敷地も、崖のような場所があったり、なだらかな窪地があったりと、かなり複雑な地形だった。そして、その中心には山がある。標高四十四メートル。山手線内でいちばん標高が高いとはいえ、見た目はちょっとした丘という程度だから遊歩道の脇に設置された『登山道入口』という看板を大げさだと千歳は笑ったが、実際に上がってみると、けっこうな急斜面で、確かに『山』だと思った。」   
              (柴崎友香「千の扉」中央公論新社 2017)

画像4

 唐十郎も、演劇評論家の西堂行人との対談の中で、戸山ハイツについてこんなことを語っている。
 
 「戸山ハイツはまだあんなにビルが建ってなくて、なんていいうんですか、平屋の集落の中になだらかな丘がある。野外劇場のような。そして、ちっちゃな六畳くらいの石の舞台がある。その後ろがすぐ公衆便所なんですね。誰も入っていない壊れた公衆便所のダーッて水の音ばかりが音楽みたいに聞こえる。」
               (西堂行人「(証言)日本のアングラ」作品社 2015)

 この「石の舞台」というのは、後述する「野外音楽堂」のことであるが、なだらかな丘、というのは箱根山のことなのか、そうでなければ、箱根山の周囲の丘陵そのものを指すのかもしれない。

 かくして、昭和41年4月16日の夜9時、謎の野外公演は始まった。観劇代金は、35円、180円、500円、2000円、そして、3万円である。映画代が500円だった昭和41年当時、3万円となると、大卒の初任給とほぼ同じであるが、この法外な料金について、嵐山光三郎は書いている。

 「英介が、男についてプールぎわに来ると、長髪を丸髷にした土方巽が、コートを着て立っていた。その横には、澁澤龍彦が、フトンに座っており、フトンの後ろで、劇団員が澁澤龍彦の背中を両手で支えていた。
 『あれが三万円の席です。三万円の席は、芝居のあいだじゅう、劇団員が背中を座椅子代りに支えるんだ。』
 男が説明した。澁澤龍彦は、坐りながらビニール袋のなかの石を、池のコイに餌をやるような感じでポンポンと投げ入れているのだった。」 (前掲書)

 そう、新進気鋭のフランス文学者として、その頃、マルキ・ド・サドの「悪徳の栄え」を翻訳したとして裁判になっていた澁澤龍彦も、その夜の観客のひとりであったという。唐十郎は、舞踏家・土方巽を介して澁澤と知り合っていた。
 そして、澁澤龍彦が投げていた石は、役者に向かって投げるべく、10円で売られていたものだった。ただ、実は、4月の公演に澁澤がいた、という記録は、この小説以外では、少なくとも私は確認できなかった。「口笛の歌が聴こえる」は、あくまでも小説ということで、4月の戸山ハイツの公演と、その半年後の10月の公演とを、あえて混同して描いている節もあるようだ。

 さて、闇のプールの空洞の中で芝居は展開され、プールサイドから取り囲むように観客が見下ろす。観客は、観劇代金を払った者だけではなく、そのほとんどが野次馬だった。その中に、全身を金粉で塗りたくった役者たちが登場する

  「『ヒャラーリ、ヒャラリコ、ヒャリーコ、ヒャラレロ・・・』
 笛吹童子のメロディーが聴こえてきた。そのメロディーはプール近くの公衆便所からわきあがってきた。音楽にあわせて、全身を金粉で塗りたくったダンサー五人が、プールの中で奇怪な踊りを開始した。」   (「口笛の歌が聴こえる」)

 ダンサーのひとりが、唐の妻である李礼仙だった。現在の李麗仙である。唐と李は、キャバレーの金粉ショーで身銭を稼いでいたので、金粉ダンスはお手の物だった。
 とはいえ、何しろ、真っ暗闇の戸山ハイツである。芝居のほとんどは暗闇の中で展開したという。ただ、当日は、テレビ局の撮影スタッフがドキュメンタリーを撮るために入っており、時折、撮影用の照明が当たったらしい。
 
 「とたんに、三十メートルほど離れた木の上に照明があたった。テレビ局が、『クルクルパー集団』というタイトルで取材に来た。木の上の枝には裸の唐十郎がフンドシ一枚で立っていた。」                                     (前掲書)

 ここでは、「クルクルパー集団」と書いているが、「気狂い集団」と命名されていた、という話もある。いずれにせよ、半ば嘲笑の対象として興味本位で撮影を行っていたことは間違いないだろう。

 嵐山光三郎は、小説とは別に、この時期の状況劇場について書いた「泥の季節」というエッセイの中で次のように記している。
 
 「この劇には金粉ぬった大久保鷹が床屋の役、麿赤児が天才役で出演していた。乞食役の唐十郎がピンクのパンツ一枚でリヤカーに乗ってゼーゼー言っていた。」
                (1982「状況劇場全記録」所収)

 昭和18年生まれの麿赤児は、高校生の頃から演劇を志しており、早稲田大学を中退後、3歳年上の唐十郎と出会い、その才能に惚れこむ。そして、唐十郎と李礼仙の住む西荻窪のアパートに転がり込み、唐とともに状況劇場を設立するのである。
 一方、麿は、舞踏家・土方巽にも師事していた。目黒にあったという土方の稽古場には、次々と客が訪れ、飲んで議論を交わして、の宴が三日三晩続くこともあったという。文学者や画家、写真家、そして、編集者、とにかく、土方の稽古場は、あらゆるジャンルの怪人たちの巣窟だったのだ。
 
 「訪問者の面々をざっと挙げると、埴谷雄高、三島由紀夫、澁澤龍彦、加藤郁乎、松山俊太郎、中西夏之、瀧口修造、野中ユリ、細江英公、吉岡実、池田龍夫、池田満寿夫、三好豊一郎、種村季弘、飯島耕一、赤瀬川原平、荒木経惟、篠山紀信、高橋逸郎、嵐山光三郎などである。
 もちろん、彼らが一堂に会することはないのだが、入れ替わり立ち替わりやってくるのだ。澁澤氏の少年のような高い声が弾む。加藤氏の野太い声が怒号のように聞こえる。土方さんの張りつめた声が時折、ビリビリと稲妻のように走る。三島氏の磊落な笑い声が辺りを包む。」  
       (麿赤児「怪男児 麿赤児がゆく」朝日新聞出版社 2011)

 土方の稽古場での伝説の酒宴については、「口笛の歌が聴こえる」でも克明に描かれており、そこには、澁澤と三島由紀夫の喧嘩のシーンまで登場する。議論が繰り広げられていた薄暗がりの中で、突然、「無礼者!」という声が響き、その声の主である澁澤が、三島由紀夫に赤ワインをぶちまけるのだ。三島は、応酬することなく、大声で笑いながらその場を去っていった、というのである。澁澤と三島、というのは、お互いに大きな影響を与え合っていた盟友であり、深く共鳴し合う理解者同士であったし、、「口笛の歌が聴こえる」以外の本で、ふたりの喧嘩についてついて書かれたものを目にしたことはない。ただ、酒が進む中、この2人が衝突をしていたとしても、不思議なことではないのかもれいない。

 麿の著書によれば、「腰巻お仙・百個の恥丘」は、麿が、唐に提案して企画されたものであり、土方の稽古場を借りたという。そのことについては、唐も語っている。

 「戸山ハイツっていう非常に面白い所があるっていうのを教えてくれたのは麿赤児なんですね。麿赤児っていうのは東京のそういう不思議な所を発見してくる名人でしてね。」
       (西堂行人「(証言)日本のアングラ」作品社 2015)

 また、澁澤たちが役者に向かって投げ入れていた石であるが、麿赤児によれば、嵐山光三郎の仕業であったというのだ。
 
 「『気に入らない役者がいたら投げろ』と、嵐山が石コロを拾っては客に買わせている。投げられればまた違った意味で、劇は盛り上がったかもしれない。が、幸か不幸か投げる客はいなかった。」 (前掲書)

画像5

 もう一度、「口笛の歌が聴こえる」に戻ろう。

 「英介が感心したときに、パトカーのサイレンが聞こえてきた。戸山ハイツ闇の社交会は、水をぶっかけられた緊張感に包まれた。パトカーの音へ対しては、誰もが本能的に反射神経を持っているのだった。パトカーの音は、たちまち一種の効果音となって、別の木の上から、藤原マキ演じる腰巻お仙が現れ、それも、テレビ局のライトにうつされた。」
(「口笛の歌が聴こえる」

 「ライトがつくと、
 『あ、こっちでやってるぞ。』
 と、私は枯草かきわけてそちらへ走る。するとうしろの闇よりケケケケケーッと声があがって、見上げれば少女役の藤原マキ(現つげ義春夫人)が着物ひろげた半裸で、木の上から奇妙キテレツな声をはりあげている、といったアンバイなのだった。」
                       (「泥の季節」)

 藤原マキは、昭和16年に大阪で生まれた。高校卒業後、演劇活動を開始し、状況劇場に加わる。この夜の公演が、役者としてのデビューであった。そして、その数年後、漫画家つげ義春と知り合い、同棲生活を続けた後、結婚をする。「リアリズムの宿」など、つげの私小説的な作品にたびたび登場する、売れない漫画家の妻のモデルが、この藤原マキなのである。そして、その後、絵本作家としても活躍するようになる。

 とにかく、金粉ダンスあり、木登りあり、そして、役者は箱根山の麓や坂道を走り回る。朽ちかけたプール、公衆便所の水の音がひっきりなしに響く。走り回ったのは役者だけではない、役者が予想外の場所に現れるたびに、観客も走り回った。箱根山そのものが、この芝居の舞台であった。

 ところが、地域住民の通報なのだろう、パトカーが現れ、劇団員も、観客も、蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げ去った。
 その時、土の中に埋められて出番を待っていた役者「土男」も、そのまま忘れ去られてしまった。しびれを切らして何とか土中から這い出してきた土男は、初めてそこで芝居がすでに終わっていることを知ったのである。まるで良寛和尚のような話だが、その後が違うところで、土男は、怒りのあまり、殺してやろうとジャックナイフを手にしたまま、唐十郎や劇団員を探し回ったという。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?