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「自分らしく生きる」について考える

 さて、息抜き、息抜き。

 去年、近所に新しいプールができたので、時々泳ぎに行っている。
 ここ10年以上まともに運動をしていなかったのだけど、数ヶ月継続的に続けたら心身ともにすこぶる調子が良い気がしていて、調子に乗って最近はRunまで始めてしまった。自転車は数年前に買うだけ買ってあんまり乗ってないけど、このまま行くといつかはトライアスロンデビューも夢じゃない気がしている。

 水泳は小さい頃に無理やり親に習わされたおかげで結構得意なので、小学生の頃の地域の大会なんかでは常に上位だった。ずっと続けていたらオリンピックくらいは出られたんじゃないかと今でも少しは思っている。
 でも僕は水泳より野球の方が好きだったので、中学、高校と野球をやるという選択をしてしまった。学校の勉強もそれほどしない割にはまぁそこそこできた記憶があるが(最近記憶喪失気味なので当てにならない)、高校も偏差値の順番じゃなくて、そこそこ真面目に練習しててそこそこ強そうな硬式野球部があるかどうか(甲子園常連みたいなところは自分の才能では無理だと思った)で選んでしまった。
 「得意なこと」より「好きなこと」で選んでしまったわけだ。プロになれるわけでもないのに野球ばかりする高校生活を選んでしまったわけだ。

 当然、勉強は疎かになった。だから入れる大学は、中途半端な大学になるわけだけど、それはそれで仕方ない。生き急いでいたのか、浪人なんてアイデアはつゆ思わず。
 大学では「まさか」の文学にはまってしまった。それまで本なんてまともに読んだことなかったのに。ドストエスフキーとかトルストイとか難しそうに思って敬遠していたのにページ開いたら全然そんなことなくて(そこにあった深い思想は理解できてない)、面白くてしかも長いから時間がかかるかかる。大学4年間あっという間に過ぎた。いちばんハマったのがコリンウィルソンのアウトサイダーという本。おかげでアウトサイダーなるものに憧れて、それが全ての事の発端だったかも。
 気づいた時にはまさかの大学院まで行って文学を学んでいて(学ぶというかひたすら好きな本を読んでいたに近い)、そして文学部の院卒になり就職氷河期な時代なので余計就職先は減るわけだ。

 それで就職したのはまさかの市役所。友人に連れられてたまたま一緒に試験受けただけみたいな、消去法みたいな仕事の選び方。行政とかまちづくりなんて全く興味なかったし。
 で10年ほどで辞めたわけだけど、今振り返ると、それはそれで充実した社会人生活で、案外やりがいあったし、そこそこ好き勝手やらせてもらえたし、行政や社会の仕組みを学ぶことができたのは大変有り難い経験だった。
 そして、色々省略するけど、40過ぎまでなんとか生きながらえていて、何を思い立ったか(単にコロナで暇になったせいかも)今は小説とか物語を書いたりしてる(まだ業にはなっていない)。

 まぁ悪くはなかったけど、振り返ると無計画で行き当たりばったりで中途半端な人生だったわけで、後悔がなかったわけではない。
 もし自分の「得意なこと」を戦略的に選んで磨きをかけてとか、きちんと将来のこと考えて人生設計していたらもっと違った人生になったのかもしれない。 
 水泳を頑張ってたらオリンピック出ていたかもしれない、もっとちゃんと勉強してたら大企業とか入ってエリートみたいにパリパリのスーツ来て丸の内を闊歩していたかもしれない、とか(笑)
 なんで親はもっとこうしなさいとか野球なんてやらないでもっと勉強しなさいとかって厳しく言ってくれなかったのか?なんで僕を自由にさせてしまったのか?(笑)
 というのは、冗談で、40過ぎて特段何も成していないし、未来も不安定で、相変わらず無計画だが、僕は一応生きながらえて、時々空の美しさに涙出るほど感動したり、可愛い愛犬の相手をしたり、たまに友人とくだらない会話しながら酒飲んだりしながら、何でもない日々を平穏に過ごせていることに言い知れぬ幸せを感じている。素直に生きろというのが親の唯一の教えだったはず(記憶喪失のため不確か)。
 世間は不穏で滅茶苦茶で悲しいことがたくさん起きているなか、僕の心持ちは凪のように穏やかで申し訳なくなるほどだ(もっと怒りよ湧いてこいw怒りを創作のエネルギーに変えるんだw)。

 さて、「自分らしく生きる」とタイトルつけて、それってどんなだろうと考えようとそもそも自分は自分らしく生きているのか反省するために過去を思い返して書いてきたけど、結局どんな選択をしても自分は自分でしかないし、どんな経験も無駄になることは無いし、出会うべく人にはどんな道通っても出会うだろうし、つまり行きつく先はそれほど変わらないんじゃないかと思っている。大同小異だ。
 個人の意思ではどうにもならない時代精神みたいなものもあって、それとの相性もあるし、足掻くも足掻かないも、どっちもありだ。

 こういうご時世なので世間のことをあまり気にしすぎず、無理に個性的であろうとすることも他者との比較意識からならそれはそれで痛々しいから肩肘張らず、いたって凡庸に生きていても本人が幸せを感じているならとやかく口挟むこともない。

So What? That’s my life ! 
心の中でそう呟いてみたりしながら、
毎日を自分なりに楽しめばいい。心と身体が喜ぶ方法で。

以上、息抜きのための、全くの個人的な走り書きで、身も蓋もない文章である。

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