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【小説】ホースキャッチ2−5

翌週、里紗はまた牧場を訪れた。

 瑛太だけでなく今日は教授も一緒に待っていた。

「里紗さん、こんにちは。よかったら今日は放牧場を見に行かないかい?」と教授は言った。

「はい。放牧場があるんですね」

 三人は裏の小径をゆっくりと歩いた。二、三分歩くと目の前に放牧場が広がってきた

 森に囲まれた放牧場はそびえ立つ樹々に囲まれて周辺の市街地と明確に区別された空間で、街の雑音は全く聞こえず、ウグイスやメジロなどの囀りのみが響き渡っていた。雑草を黙々と食べている馬が何頭かいた。樹々には新緑が芽吹きつつあり、足元ではあちこちにタンポポ、カタクリ、スミレ、ノアザミなどが慎ましやかに咲いていて、その周りをアゲハ蝶やモンシロ蝶が舞っていた。奥の森の真っ直ぐに伸びた針葉樹を見上げると、際立って深く青い空があった。

「わぁ綺麗」

 まるで神話の世界のような牧歌的な景色で今にもニンフやパンが現れ出そうに思えて、里紗は感嘆の声をあげた。

「美しい場所だよね。陸人のお父さんの自慢の放牧場なんだ。馬たちは仕事がないときはここでのんびりしているんだ」と瑛太が言った。

「本当に素敵な場所。馬たちも幸せだね」

「さて、今日はホースキャッチだ。ここにいる馬たちのどれでもいいから捕まえて厩舎に連れて帰ろう。今は全部で八頭いる。キャナルは今日はここにはいないね。里紗ちゃんの知らない馬ばかりだね。ちなみにまだそんなに調教していなくて人に慣れていない馬もいるから気をつけて」と言って、瑛太は里紗に無口を渡した。

「え、ホースキャッチ? こんな広いところにいるのに捕まえられるの?」

 里紗は戸惑いながら、牧場を見渡した。

近くには栗毛の馬と黒光りしている黒鹿毛の馬が一頭ずついた。真ん中あたりに茶色い鹿毛の馬が四頭いて群がるように草を食べていた。奥のほうには白っぽい芦毛の馬が二頭少し離れた距離を取りながら佇んでいた。

里紗は一番近くの栗毛の馬に視線を向けた。その馬は三十メートル以上離れているのに里紗の気配を感じて、二歩、三歩と後ずさった。里紗はその馬に近づこうとした。すると馬は後ろに向かって歩きだした。彼女が追いかけようとすると馬は早足で逃げて行ってしまった。

 今度は真ん中で群がる鹿毛の馬に近づいていった。ゆっくりと近づいていくと、三頭の馬は逃げてしまったが、一頭だけはそのまま草を食べていた。里紗はそろりそろりとその馬に近づいた。五メートルほどの距離まで来た。馬はまだ里紗にお尻を向けて草を食べている。

「馬の後ろに立つと蹴られることもあるから気をつけて。横から近づいたほうがいいかな」と瑛太が声をあげた。

 里紗は慌てて馬の横に回り込み、一歩一歩と慎重に接近していった。馬の真横まできた。馬は里紗のことを構わず草を食べ続けている。里紗は少し腰を屈めて馬の首に恐る恐る無口をかけようとした。すると馬は突然首をあげて反対方向に走り出してしまった。

「惜しいね」と瑛太は残念そうに言った。

 瑛太は見本を見せようと、先ほど里紗から離れて行った栗毛の馬に近づいていった。馬は耳をピクピクさせて瑛太の存在には気づいていたが、そのまま動かずにいた。瑛太が真横まで近づいた。馬はじっとしていた。瑛太はゆっくりと馬の首に無口をつけた。

「瑛太、すごいね。流石だね」里紗は目を丸くして言った。

「調馬索の時に馬を走らせるのとは反対で、今度はできるだけ気配を消す。草食動物になりきる感じかな」と瑛太は言った。

 隣にいた教授が瑛太の言葉に被せるように言った。

「これもね、調馬索と一緒で、同じようにできれば、初めての人でも誰でもできるんだ。瑛太君が餌をくれる人だからじゃない。ただゆっくりと近づけばいいってものでもない。大事なのは、テクニックというよりは、オーラみたいなものだね。見えない『気』みたいなものが大事なんだ。馬には嘘は通じない。優しいふりをしたり、仲間を装っても、見破られる。捕まえてやるという気持ちが少しでもあれば見透かされる」

「なるほど。わかりました。捕まえてやるという自分のエゴが出ちゃダメなんですね」

「そう。でもエゴを隠そうとしてもダメ。隠そうとするものエゴだから」と教授は重ねて言った。

「え? 隠そうとするのもエゴ?」

 瑛太もまた被せて言う。

「うまく言えないけど、イメージでは捕まえるというよりは馬を引き寄せるって感じかな」

「え? 引き寄せる?」

「いや、引き寄せるでもないかな。あ、そこに草食動物がいる。仲間がいる。あ、近づいてみよう、って馬が勝手に近づいてくるイメージかな」

 里紗は教授と瑛太のアドバイスに余計混乱しながらも、瑛太の真似をして気配を消したり、草食動物になったふりをして馬を捕まえようとした。けれど馬はまたすぐに逃げてしまったり、近づくことができてもそっぽを向いて無口をつけさせなかったり、里紗にはなかなか手強かった。三十分以上、広い放牧場をあちこちと歩き周ったが、結局どの馬も捕まえることができなかった。

「いやこれは難しいな。引き馬も調馬索ももちろん全然できていなかったけど、これはもっと難しいかも」

 里紗は息を切らして、しょんぼりした様子を見せた。

「いやでも惜しいシーンがたくさんあった。里紗ちゃんすごいよ」

 瑛太は慰めるように言った。

「教授、ところで先ほどの、エゴを隠そうとするのもエゴ、ってどういう意味ですか?」と里紗は尋ねた。

「いい質問だね。一般に人は自分本位や自分勝手であるのは良くないと言われているじゃないか。自分のエゴをあまり出してはいけないと。他者への思いやりが大事、利他こそ善だと」

「そうですね。学校でも家庭でもそう教わるし、ビジネスで成功する人もそういうこと言いますものね」

「だから人は、エゴ的じゃない、利他な人間になれるように努力したり、行動したりするし、そういう風に自分のことを思いたい。利他で博愛精神のある私こそが本当の私だと思いたい。里紗さんのいうようにそういうことが社会的にも推奨されているし、それはもちろん悪いことじゃない。むしろいいことだとは思う」

「そうですね。自由・平等・博愛が大事ですから」

「そうだね。でも、実はそこにもエゴのトリックがあるんだ。利他だろうが博愛だろうが、『何者かになろう』という意味では、お金持ちになろうとか成功しようとか俗っぽいことと実はあまり変わりがない。エゴは、エゴ的であるのは良くない、利他や博愛こそが大事だと呟いて、本当の私は利他だ、博愛だと思わせる力がある。そしてそれを自分の個性というかアイデンティティとして確立させて、執着させる。そしてその裏でこっそりエゴは生き残ろうとするんだ」

「なるほど。つまり、本当に利他で博愛の人は、自分がそうだと言わないし、それが大事とも言わないし、何なら自分がそうだとも思っていない、ってことですね」

「そう。言い換えると、何が善い、悪いと裁いているうちはエゴなんだ。そして馬にはそのエゴの仕業を見抜く力がある」

 先ほどまで快晴だった空が翳り始めて、いつの間にか厚い雲が空を覆い始めた。ごろごろと音が鳴り出し、雲の動きが早くなり、夕立がやってきそうな空模様になった。西の空が一瞬ぴかっと光り、細かい雨がぱらぱらと降り出した。

「今日はこれで終わりにして戻ろうか」

と瑛太が言って、三人は放牧場から厩舎に戻ろうとした。

 そのとき、雷に反応したのか、突然一頭の馬が高くいななきながら勢いよく放牧場の中を走り出した。と、他の馬たちもその馬につられて後を追うように走り出した。八頭の馬がお互いがぶつかり合うかのような距離で一つの群、いや一つの塊となって、広い放牧場を疾風のごとく駆け巡った。その塊は怒涛の勢いで放牧場の端まで走り終えると、すぐさま反対の方へ向かって勢い止まることなく走り出した。三千坪の広さなんて馬が本気で走ったらあっという間で、馬の群れは悠々と行ったり来たりを繰り返している。祭りのクライマックスに陶酔して踊り狂う者達を鼓舞して止むことなく連打される太鼓のように三十二本の蹄が大地を叩き続ける。激しく鳴り響く蹄音が雷の音も雨の音も何もかも、かき消す。

 滅多に見ることのできない馬たちの本気の韋駄天走りに瑛太も教授も鼻息を荒くしながら見入っている。稲光に照らされながら二人とも少年のような無邪気な笑顔をしている。その隣、里紗は一人放心したように立ちすくんでいる。個別の意志や思惟などあるようでない、歓喜し、舞踏し、波打つ壮大な一塊りの群れ。地響きのような荒々しい蹄音が雷鳴と共に里紗に向かって奔流のようになだれこみ、里紗の中で振動し、こだましている。その刹那、小さい頃の記憶がふと呼び起こされる。


『わたしは小さなベッドに横たわり、天井の丸いライトを静かに見ていた。私の周りには父と母と祖父と祖母がいてわたしを見ながら何か話をしている。二歳の頃だ。わたしはっきりと覚えている。

 あの頃のわたしは言葉が分からなかったけど、みんながどんな気持ちでいるのか感じることが出来た。この人は悲しんでいる、あの人は喜んでいる、あの人は笑っているけど泣いている、あの人も笑っているけど怒っている、みんな分かった。みんなもわたしが言葉を話せなくてもわたしのことを理解してくれていた。そう、何もしなくてもわたしはみんなと一緒だった。そのままで通じ合えていた』


 エゴも、分離もない、一つの世界が私にもあったんだ。

 ずっとそのままならよかったのにね……

2−6へ続く。
https://note.com/okubotsuyoshi/n/na04da0f09407

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