見出し画像

【小説】ホースキャッチ1-1

あらすじ
 大手企業に就職して順調にキャリアを積みあげてきた30代の里紗は突然心を病んでしまう。突然の心の不調に里紗は戸惑う。そんな里紗を心配した幼なじみの瑛太は自分の働く馬の牧場に彼女を誘う。そこで里紗はホースセラピーに出会い、これまでのキャリア人生とは全く違う世界観を体感し、本来の自分を取り戻していく。

第1話
 秋はあらゆるものを実らせ、束の間の生の喜びをもたらし、美しい深い調べを奏でる。その反面、非情で恐ろしく吹き荒れる力を持ち合わせ、人を夏の夢から目覚めさせ、あらゆる生命に無力さを突きつける。秋風にたなびく雲は太陽と気脈を通じ合せ、冬の訪れを必死に覆い隠す。

 十月は特に美しく、残酷な月である。物理的な力が突如として大地や人を傷つけることがあれば、時には目に見えない力が人の傷を露わにすることもある。自然と人間の精神は知らぬうちに何らかの交信をしているのかもしれない。私達は抗えない引力に素直にならざるを得ない。秋の幻想に惑わされることなく、訪れる冬の寒さに目を背けてはならない。

「いやひどいな」

 瑛太と陸人は目をキョトンとさせて、酷く荒れた馬場を見ていた。開けた口が塞がらない。

 過去最大級の台風が鎖を解かれた猛獣のように、牧場を襲ったのだった。

 馬場には池のような大きな水たまりができていて、大小様々な木の枝葉があちこちに散らばっていた。対策をしていた厩舎とクラブハウスは、周りの林が防風林の役目を果たしていたこともあり、被害が少なそうだった。馬達も無事だった。

「畑はどうだろう?」

 瑛太はぬかるんだ道を急ぎ足で畑に向かった。

 牧場から数分歩いたところに二百坪ほどの小さい畑があり、瑛太と陸人はそこで野菜を育てていた。りんごの木や柿の木も植えられていた。

「こっちもひどいね」

 畑はところどころ土が削られて、泥だらけの小川ができていた。

小松菜などの葉物や白菜はほとんどやられていた。熟れつつあったりんごや柿はほとんど枝から振り落とされ、泥の中にポツンポツンと埋まっていた。瑛太がアブラムシなどの虫たちや雑草と格闘しながら育ててきた作物だった。瑛太はやるせない気持ちになった。

「でも、まぁいいか。また来年だ」

 瑛太達は気を取り直して、スタッフ総出で復旧作業に取り掛かった。瑛太は馬場の水たまりを取り除くため、マンホールくらいの大きさのスポンジで泥水を吸い取り、バケツに移した。バケツが泥水でいっぱいになると、それを一輪車に乗せて運び出した。これを何回も繰り返した。陸人と他のスタッフは散らばる木の枝葉をかき集めて外に運び出した。所々に根元から折れたような大きな枝葉があった。折れたばかりの枝葉は水をたっぷり含んでいて重い。複数人で持ち上げてようやく運び出した。

 馬場がぬかるんでいて、作業がなかなか進まない。台風が去った後の空は皮肉なほど青々しくて雲一つない。季節外れの暖かさで皆の汗が馬場のぬかるみに垂れ落ちる。思いのほか重労働だった。ようやく運び出しが終わると、次は砂をストックヤードから運び入れて、水溜りでできた穴ぼこを埋める。重い一輪車で何度も往復したので、瑛太の手には血豆ができた。穴ぼこを埋め終えると、最後に陸人がトラクターで馬場を綺麗にならした。

「ふう。やっと馬場がまともになったな」

「これはなかなか大変な作業だね、いやまいった」

 皆、汗を拭った。

 馬場の復旧が終わると、次は厩舎とクラブハウスの修復に取り掛かった。こちらは被害が少なくて数カ所雨漏りやひび割れた窓などの補修をした。濡れた藁や道具類は外に運び出して天日に干した。皮の道具類が晴天のおかげでよく乾いた。

 作業の合間に、馬房の掃除や馬の餌やりなどいつもの仕事もしなくてはならない。手の空いたスタッフが交代しながら対応した。

 丸二日かけてどうにか牧場の復旧を終えた。瑛太は畑も復旧しなくてはならなかったのだが、畑は時間をかけてのんびりとやることにした。


 瑛太がこの牧場で馬の仕事を始めたのは十年ほど前からだった。瑛太が新卒で就職した会社を一年ほどで辞めた頃、幼馴染の陸人からメールが来たのだった。陸人は高校を卒業してから親の経営する牧場で働いていた。

「だれかうちの牧場でアルバイトしてくれそうな人がいたら紹介して欲しいです。厩舎の掃除や馬の餌やりとか簡単な仕事です」

 陸人はこのメールを知り合いの皆に送っていた。

 瑛太はふと好奇心に駆られて、

「俺やってみたいな。俺じゃダメかな?」と返した。

「まじか! 瑛太、いいところに就職したばかりじゃんかよ?」

と陸人からすぐに返事が返ってきた。

「実は辞めちゃってさぁ、なんか性に合わなくて」

「馬の世話のアルバイトだよ? いいの?」

 陸人は少し困惑しながらメールを返した。

「まぁいいじゃん。他に適当な人が見つかるまででもいいから。やってみてもいいかな? 高校の時に何度か牧場に遊びに行ってさ、あの雰囲気、結構好きだったんだよね」

「瑛太がいいなら、まあいいけどさ」

 牧場の仕事はきつかった。朝は早く、夏は真っ黒に焼けながら、冬は冷たい北風に肌を震わせながら作業をしなくてはならない。気が緩むと馬に蹴られたり、噛まれることもある。馬に乗れば落馬して怪我することもある。力仕事の経験がろくにないない瑛太にとっては骨の折れる仕事だった。

 瑛太は音を上げそうになることが何度もあったが、二、三年も続けていると段々に慣れてきて、気づくともう十年も経っていたのだった。

 最初の一、二年は馬房の掃除や餌やりなど、きついけど単調な仕事のみをこなしていたが、少し経つと瑛太は陸人から馬の運動や簡単な調教も習い始め、今では立派な乗馬のインストラクターになっていた。


 十月も後半になると、畑も元どおり綺麗になりつつあり、台風の後始末は一段落した。やっと一息つくことができるようになった瑛太は里紗にメールを送った。

「前に里紗ちゃんが話していた秋鮭のパスタを急に思い出しました。よかったら今度あの丸の内のレストランに行きましょう」

 翌日、里紗から返事あった。

「そうだったね。ごめんね。私が秋になったら行こうと言っていたのに忘れてた。今度の金曜でどうかな? よかったら予約しておくね」

「うん。オッケーです。では金曜日に」

 瑛太には陸人の他にもう一人亮介という幼馴染がいて、この幼馴染三人組は半年前ほどに高校の同級生で仲の良かった里紗と数年ぶりの再開をした。それから瑛太と里紗は一度二人で食事をしていて、今回が二度目の食事であった。

 金曜日になった。丸の内仲通りに整然と立ち並ぶケヤキの街路樹はすっかり紅葉して葉が落ち始めていた。

「里紗ちゃん、何飲む?」

「今日は私お酒はやめておこうかな」

「珍しいね。何も飲まないなんて。じゃぁ俺も今日は水でいいや。料理は任せていいかな」

 瑛太はいつものように料理のチョイスを里紗に任せた。里紗はいつもなら迷うことなくさっさと選ぶのだが、今日はしばらくメニューを見ていて「秋鮭のパスタは頼むとして、他は何がいいかな。何だろ、なかなか決まらないな。今日は瑛太に選んでもらおうかな」と瑛太にメニューを渡した。

「分かった。じゃぁ前菜は前と同じ魚のやつとチーズのこれでいいかな?」

「うん」里紗は口元を緩ませて頷いた。

 数分、沈黙があった。ホールスタッフが爽やかな笑顔で前菜を運んできた。里紗は前菜を取り分けた。

「やっぱりここの料理は美味しいね。アクアパッツアって言ったよね。これ好きだな」

「これ美味しいよね。私も好き」

 里紗の声にいつものような張りがなかった。

「里紗ちゃん、なんか元気がないね? 疲れている?」

「そう? そんなことないよ」

 瑛太は彼女の様子が何かおかしいように感じた。

 また少し沈黙があり、秋鮭のパスタが来た。

「これは美味しいね。鮭がとても柔らかいし、こんな美味しいパスタ食べたのは初めてかも。どうしたらこんなものが作れるんだろうね」

 瑛太は美味しそうにパスタを食べながら、いつもより大げさなそぶりで言った。

「そうね、美味しいよね」

 里紗の笑顔がぎこちない。表情がどことなく虚ろだった。

「やっぱり、疲れている?」

「ごめん。このところ仕事が忙しいからかな。ちょっと疲れているみたいで」

 その後も彼女の口数は少なく、表情は冴えないままだった。

 普段は聞き役にまわることが多い瑛太だったが、今日は里紗が少しでも笑顔になればと思い、冗談を言ったり、できるだけ明るい振る舞いをしてみせた。瑛太の話に彼女は笑って返したが、やはり不自然な笑顔だった。

 結局、里紗の食事はあまり進まず、二人は早めに切り上げて店を出た。

 ガラス張りの高層ビルから漏れる明かりが煌々と灰色の夜空を、地上階に並ぶカフェの灯火が淡淡しく石畳の街路を照らしていた。街路樹の葉が石畳の上をかさかさと音を立てて軽やかに舞っていた。都会の夜がどことなく白々しかった。

 そんな都会の夜を二人は静かに駅まで歩いた。とても肌寒かった。

「ごめんね。最近わたし何かおかしいの」

 里紗は別れ際に小声で呟いた。

1-2に続く
https://note.com/okubotsuyoshi/n/n7e0b048c10f8

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?