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【小説】ホースキャッチ2−3

一週間後、再び里紗は牧場を訪れた。

「今回は引き馬だけじゃなくて、調馬索もやってみようか。調馬索は馬を運動させるためにやるものなんだ」

「調馬索? それって馬の調教でやる、あれ?……」

「うん。そう」瑛太はニコッと笑った。

 今日は長方形の馬場の隣にある丸馬場に向かった。

 瑛太は調馬索の手本を見せた。

「まずこの調馬索という長いロープを馬の頭絡に繋いで、自分は馬場の真ん中に立つ。左周りに動かすときは左手でロープをもって、右手にはこのムチをもつ。段々とロープを長くして馬を歩かせる。さぁキャナル、並歩(なみあし)進め、と声をかける」

 瑛太の掛け声で馬は丸馬場いっぱいに広く弧を描くように歩き出した。

「自分はなるべく円の真ん中から動かないようにして、馬の方に身体だけ向ける。それで次は速歩(はやあし)と声をかける」

 キャナルは耳をピクリとさせて瑛太の声に反応した。馬の足音がニ拍子になり、速歩に変わる。

「まだのんびりした速歩なので、もう少し馬のスピードを上げたいときは、声のトーンを上げて、速歩!と指示を出す。馬は言葉じゃなくてトーンで理解するから。さらに身体も少し動かして馬に圧をかけて。さぁキャナル!」

 キャナルの動きが俊敏になる。前足が右左と交互にリズミカルに動き、尾が長くなびきだす。大きな身体が伸びやかに滑らかにどんどん前に進んでいく。

「今度は駈歩(かけあしに)をさせる。もう少し声のトーンを上げて、さぁ駈歩! そしてまた身体も使って、こうやって手を大きく広げて自分を大きく見せる」

 キャナルの逞しい胸回りと太ももの筋肉が力強く動き始める。キャナルは尾を振り上げ、首を前後に揺らしながら、勢いよく駈歩を始めた。

「もっと早く走らせるには、もっと声のトーンをあげて、ムチもかざして身体をもっと大きく見せる。鋭い目つきで睨むようにしてもいい。キャナル!」

 キャナルは追い立てられるように颯爽と走り出す。蹄が土を蹴り上げる音を高々と響かせながら、キャナルはそのまま丸馬場を二周、三周と走り続ける。

「次はまた馬をゆっくりとした速度に戻したいので、ゆっくりとしたトーンで速歩と指示を出す。ほぉーお、ほぉーお、と馬を落ち着かせる掛け声をかけて、安心させる」 

 馬はゆっくりと速度を落とす。

「さらにトーンを下げて、身体の動きも小さくして、ほぉーお、ほぉーお」

 馬は並歩になり、最後は「止まれ」とささやくようなトーンで、力を抜いて言うと、馬はぴたっと止まった。

「こんな感じ。まずは声のトーン。言葉の意味じゃなくてね。次に身体の位置や向きを変えて、大きく見せたり、小さく見せたりとボディランゲージで馬に合図を送る。じゃあ里紗ちゃんもやってみようか?」

「これはだいぶ難しいそう。できるかな」

 里紗は馬場の真ん中に立ってロープを伸ばすと、馬は外ラチの近くを歩き出した。

「馬の顔を正面から見るんじゃなくて、少し後ろに立って、腰の方に身体を向けて、後ろから追い立てるイメージで意識を馬のお尻の方に向けて」

 キャナルはゆっくりと歩いている。

「それでは、速歩行ってみよう」

 里紗は「速歩!」と言うが、馬はゆっくりと歩いたまま。

「もっとトーンを上げて。身体を使って、走れ!って表現して」

 里紗は瑛太の言う通りにするも、馬はなかなか速歩にならない。

「まだトーンが弱い。馬に伝わってない。ムチも見せて身体を大きく見せて」

 里紗は声を張り上げ、ムチを振り上げた。

 キャナルはやっとトコトコと走り出した。

「さぁ次は駈歩だ。もっと声のトーンをあげて。ムチを高くあげて大きな扇のように身体を大きく見せて」と瑛太はジェスチャーで示す。

 里紗は「駈歩!」と声を絞り出し、瑛太を真似て身体を大きく見せる。けれど馬はまだトコトコと走っている。

「もっと大きく、もっと素早くムチを振りかぶっていい。目にも力を入れて。怖そうな肉食動物みたいに。食べちゃうぞって覇気を強く出して」

「覇気? 肉食動物?」頭の中に疑問符が浮かぶが、それでも言われるがままに、里紗は力強くぎゅっとキャナルを睨みつけ、ムチを素早く高く振りかぶる。馬はまだ変わらない。

「里紗ちゃん、もっともっと! ライオンみたいに大きく強く! ムチを地面にパチン!」

「ライオン? もうこれ以上大きくなんかなれないよ」と里紗は諦めた表情を見せる。

「もう少しだよ! もうすぐ駆け出すよ! 諦めないで」

という瑛太の言葉に、里紗は「はい、分かりましたよ!」と観念して、体裁構わず大きな声を張り上げた。

「キャナル! 駈歩! 行け!」そして力の限りムチを地面に叩いた。

 後ろ足の蹄が力強く土を蹴り上げ、砂埃が舞った。ついにキャナルは勢いよく駆け出した。

「やった!」里紗の顔から笑みが溢れた。

 瑛太も小さくガッツポーズをして、

「よし! そうしたらそのまま力を緩めずに、馬をそのまま走らせ続けて!」

 里紗はムチを高く掲げ、身体を大きく見せ続けた。

 キャナルはたてがみと尾をなびかせながら颯爽と走り続けた。

「オッケー、オッケー。今度はまた馬をゆっくりに戻そう。声のトーンを下げて、はやあしと穏やかな声で、それからもっと穏やかな声でなーみあーしと合図して、自分も力を抜いて、最後はゆっくりとーまーれと小さな声で止まらせよう」

 瑛太の掛け声で里紗の身体から張り詰めた緊張が自然にとける。

 馬は段々とペースを落として、最後はゆっくりと止まった。

「上手、上手。里紗ちゃん、お疲れ様」

 瑛太が馬を預かると、火照った全身の力が一気に緩んで、里紗は膝から崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。

「あぁ疲れたぁ。瑛太みたいに全然できなかったな。当たり前だけど」

「いやとても上手だったよ。それに別に上手になって欲しいわけじゃないし、馬とコミュニケーションとれると楽しいから、里紗ちゃんにそれを経験してもらいたいだけだから」

「うん、そうだね。少しだけ馬とコミュニケーションが取れた気がする。楽しかった」

 里紗の頬を滴る汗が玉のようにきらきらと輝いていた。


 里紗と瑛太が外のベンチに腰掛けて休憩をしていると、教授が近づいてきて声をかけた。里紗に引き馬や調馬索をやらせるというのは教授の提案だったので、彼は気にかけて里紗が来るときには出来るだけ自分も来ようしていた。

「今日は調馬索をやったんだね。難しかっただろう」

「はい。とても難しくて、瑛太が色々とアドバイスしてくれて、その通りやろうとするんですけど、何が何だか分からなくてなってきて、結局最後は馬は走ってくれたのですけど、何で走ってくれたのかもう覚えてなくて」

「調馬索というのも引き馬と同じで奥が深いからね」

 里紗はうんと頷いた。

「大事なことは、そこには偏見も差別もないコミュニケーションがあるってことなんだ。馬には君の話している言葉は分からなくても、君の言いたいことは通じる。馬は君の感情やこういう事をしたいんだという意図や本気度が分かるんだ。だから瑛太君だからできるわけじゃなくて、誰がやっても同じようにできれば馬には伝わる。馬は個体識別をしない生き物なんだ。例えば犬だったら飼い主の言うことしか聞かないだろう。知らない人がボールを投げても追っかけたりしない。馬は餌をくれるからこいつの言うことは聞こうとかじゃなく、誰でも正しくボールを投げてあげれば追いかけてくれる。誰にでも平等に接してくれるんだ。意図が通じればね」

「正しく伝えれば、差別なく誰の話も聞いてくれるわけですね。この人だから信じる、あの人だから信じない、とかがないってことですね。人間だったら絶対できないですものね」

 里紗は真面目に教授の言葉に耳を傾けた。

「そう。差別がない。だから逆の言い方をすると、どれだけ優しくしても、どれだけ面倒を見てあげても、だからと言って特別に懐くようなことはない。誰のことも特別視はしてくれない。飼主としては悲しいことだね」

「なるほど。でもそれはつまり忠誠心がないというわけではなくて、適切に接してくれる人には誰にでも素直で誠実ってことですよね」

 教授の口調が熱を帯びてきて、里紗もそれに反応して興奮気味になってきた。

「そう。忠誠心はあっても、それは特定の者にずっと向けられることはなくて、その場その場によって最も適切な者に向けられる。だから野生で暮らしている時は、群の中で最も適した者がその都度リーダーに選ばれるんだ。猿なんかは親分がずっと変らないけど、馬は違う。馬は牙も角もない動物で、戦うことなくいつも群で天敵から逃げて生き伸びている。リーダーが入れ変わるというのも生き延びるための知恵なんだろうね。賢い知恵だね」

「必要に応じてリーダーが常に入れ替わるわけですね。確かに環境変化が激しいときにずっと同じリーダーだったら沈没しちゃうかもしれませんね。これからの組織の在り方の参考になりそうですね」

「あそこに大人の馬と二頭の仔馬がいるのが見えるかい?」と教授は一番奥の丸馬場を指で指した。大人の馬の周りを二頭の仔馬はうろうろしていて、すばしっこく動き回ったり、一頭が突然走り出すと追いかけっこでもするかのようにもう一頭も走り出した。走るのをやめると今度はお尻をつっついたり楽しそうにじゃれあっていた。

「はい。可愛い子馬たち! 仲良し親子!」

「仲良し親子だよね。でもね、あの馬たちは本当の親子じゃないんだよ。さっきの個体認識の続きだけど、馬は母親が違ってもいいんだ。誰がお乳をあげてもいい。この仔馬たちのように誰に育てられても、きちんと育つんだ。個体認識をしないから、人間みたいに僕のママじゃなきゃ嫌だと拗ねたりしない。たまにだけど、こういうことが起きる。すごいことだよね。馬っていうのはつまりエゴがないんじゃないかと思うね。世界は一つで、誰とでも繋がることができる。集団としては生き延びる意志はあっても、個人個人はいい意味で誰でもいいというか、エゴイスティックな愛よりも、大いなる全体の一部であるという安堵感が支配する世界で生きているんだろうね」

 里紗は返す言葉がうまく見つからなかった。

「良かったら、ここで馬の暮らしに色々と触れてみるといいよ」

 教授は言いたいことを言い終わると、またクラブハウスへ戻っていった。

 里紗はそのままベンチに座っていた。

『個体認識をしないかぁ。エゴがないかぁ。なかなか奥が深いな。私もできるだけ自分のエゴを出さないようにしている。自分本位は良くない。何事も自分だけが良ければいいと思っていない。利他を心がけていているつもり。だけど、私のそれと馬のそれは何となく違うような気もする』

物思いに耽っている里紗に瑛太が話しかけた。

「里紗ちゃんがいくらかでも元気になってホッとした。本当によかった。仕事はいつ頃から復帰するの?」

「うん。今どうしようかなって迷ってるんだ。職場のみんなにも負担かけてるし、やれば出来ないことはないと思うんだけど、何となくまだ気持ちがそこまでついてきていないというか、前みたいにできるか自信がないというか。また病んだらどうしようとか、色々悩んじゃってるんだよね」

「療養休暇ってどれくらい取れるの?」

「制度としては確か最長二年までかな。うつの場合だと人によっては三カ月で復帰する人もいるし、半年の人もいるし、一年以上の人もいたり、様々かな。お給料も減るけど無給にはならないし、なかなかクビにもならないみたいだし。大企業ってすごいよね、守られてるよね」

「そうなんだ。でもそういう仕組みならそれは有効に使って、本当に良くなるまできちんと休んだほうがいいかもね。走り続けていると出来ないこともあるじゃん。里紗ちゃんの立場とか昇級のこととか考えずに無責任に言ってるけど。良かったらまたこうやって遊びきて」

「ありがとう」

 二人が座るベンチの目の前にある馬場ではクラブ会員が息を荒げて障害ジャンプの練習をしていた。いつもより高い障害を飛べたようで、その人は目を輝かせていた。インストラクターも拍手をして喜んでいた。二人とも生き生きとしていた。普段なら純粋に微笑ましく見える光景が、今の彼女にはなぜか妙に眩しく見えた。

 里紗がしばらくぼうっとしていると、レッスンが終わり、馬場は静かになった。風もなく、凪のように静かだった。

 里紗は誰もいない広々とした馬場に足を踏み入れ、雲ひとつない青い空を見上げた。

「今はこれでいい」と里紗は小さな声で呟いた。

2−4へ続く。
https://note.com/okubotsuyoshi/n/n71f113b72166

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