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子供に「古事記ってどんなこと書いてあるの?」と聞かれた時に答えたい たった1つのこと

北に阿蘇山を、東に日の出を眺め、初代天皇の神武天皇が東征に発つことを決意した幣立神宮の高台に来てみて改めて思ったことがある。

実は、神武天皇は、東征に、戦いのために東に向かったわけではない。

幣立神宮より少し東に行くと、天孫降臨の地、日向高千穂がある。

ここに高天原から降り立った ニニギノミコト(神武天皇の曾祖父さん。アマテラスのお孫さん)は、オオクニヌシさんという神さまから国を譲り受けたわけだが、この国譲りのお話こそ、古事記の最も重要なエピソードである。

子供に古事記ってどんなこと書いてあるの?と聞かれたら、とりあえずここだけ答えたらいいと思うエピソードだ。

ちなみに古事記は日本の神話で、ここに描かれる神々は完璧なる善の存在ではなく、勧善懲悪でもなく、時に残虐でもある。極めて人間的で、物語として面白い。しかしなかなか全部を読む時間のない方々は 取り急ぎこのエピソードだけを子供たちに伝えたらいいと思う。

天孫降臨のとき、日本を支配していたのは出雲系のオオクニヌシ(国津神)さんだった。
そのオオクニヌシさんに、アマテラス(天津神)さんの派遣したタケミカヅチ(春日大社や鹿島神宮のご祭神で戦いの神)さんは、オオクニヌシさんにこのように言ったのである。

「汝のうしわける(支配領有する)葦原中つ国(日本)は、我が御子の治(しら)す国ぞ」。

これを受けてオオクニヌシからニニギノミコトへの国譲りがなされるわけだが、

このとき、為政者と民との関係が「力による支配」から、「民の心を知る、信頼による統治」へと変わったのだ。

しらす、(丁寧語でしろしめす )とは 民の心を知ろうとする姿勢である。明仁上皇陛下(先帝陛下)のお言葉やご公務の様子からも伝わってくるように、その時以来、皇孫は民を支配するではなく、民の心を汲んだ政(まつり)ごとを行なっていたのだ。

つまり、古事記のこのエピソードは、この国の君主と民との関係を一言で示しているのである。

このしらす(しろしめす)という文言は明治憲法にも使われる予定だったらしい(実際には「天皇が統帥する」になったが)。

この伝言を伝えたタケミカヅチノカミは武将の神でもあるけど力でオオクニヌシを説得していない。しぶとく対話し、国譲りを決意させたのである(刀をふりかざすふりくらいはしたかも笑)。

この系統に連なる神武天皇が、戦いのために東に向かう訳がない。

ではなぜ、古事記や日本書記(記紀という)に描かれた神武天皇は武将のようなのか。

これには記紀が書かれた時代背景を知る必要がある。

白村江の戦いに負けた日本にとって、唐は脅威であった。幕末の西洋列強のように。幕末と同じようにそれから日本は唐に学び、法律を作り、官僚制度を作り、国史を編纂する必要に迫られた。唐に攻められないためにも、この国の初代帝の神武天皇は猛々しく描かれてなくてはならなかった(推測だ)。本当は違うのに。

本当の神武天皇は、八紘一宇という言葉を発したとおり、この国の民はみんな家族のように仲良く暮らすべしと言い、各地の豪族を制圧しに東に向かったのではなく、対話して、和合して、国を統一したのだった。(多少の戦いはあったかもしれないけど、ノーサイドしたのだ)。

近年の考古学によると、我が国古代は戦いの痕跡があまり見られないそうだ。

神武天皇は、美しき阿蘇山を北に眺め、和合するために、日が出づる東へと 向かわれたのである。
結果、例えば、オオクニヌシは出雲を失うことはなかったし、各地の豪族もそうだったであろう。 豪族から土地を奪うことはなかった。

ちなみに、神武天皇に繋がる天津神は、森林と岩清水の「縄文」の系譜に連なると思っている。

縄文人は、山の民だ。やまと(大和)とは、山の民の地域であると、幣立神社のある山都町(山の中にある町)や奈良大和地方(小さな山に囲まれてる盆地)でも感じたことだ。

(幣立のある熊本)

(奈良 明日香)

(山々に囲まれた京都)

奈良にしても京都にしても九州にしても、集落は小さな山々に囲まれている。
山の恵みを得られる山麓は田畑を耕して暮らすのに絶好の場所なのだ。
だだっ広い関東平野にいると気づかないが、我が国の国土は3分の2は森林だ。大小様々な山があって我が国は本当に豊かなところだと思う。

さて、九州から東へと進んだ森林と岩清水の山の民が、鉄器を作り力のあった出雲系をどうして抑えて、近畿のやまとに都を作ることができたのか。

ここからは全くの空想であるが(これまでも空想でしたけど笑)、山の民は、航海術に長けた海の民とすでに和合し、その航海術を味方につけていたのだ。

海の民を味方につけて、航海術を駆使して、山の民もまた大陸から鉄や青銅器の作り方を学んでいたのだ。
日本最古の貨幣は和同開珎ではなく、飛鳥時代に近畿で見つかった「無文銀銭」だったそうだ。つまり大和でも鋳造技術があったのだ。

山の民(天津神から連なる皇孫)は、そうして国津神(豪族)を抑えて大和の国を統一したのだ。

そして、命の源である 明日香の山々を神として祀ったのだ。三輪山や橿原や春日大社の本殿は山だ。

修験道や山岳信仰ではなく、民の暮らしの糧となる小さな山々だ。里山だ。水をもたらし、柴をもたらし、田畑を耕し、薪をくべるための山だ。山を大切にして砂漠にしないように木を切りすぎないように、山を鎮守の森として祀った。

いつしか、民のためにそうした知恵を絞った先人知恵者は、民の信頼を集めて、民は知恵者への感謝を示すためにやしろを建て、神社は各地へ広がっていったのだろう。

そうして、大和朝廷は、民の心をとらえて、この国を平定していったのだ。

大和朝廷の最東端がきっと茨城県の鹿島神宮あたりなのだろう。ここまでは少なくとも大和朝廷の影響力がおよんでいたのだと思う。
幣立神宮の日出ずる東に、奈良大和があり、その東に、伊勢があり、さらに東に 鹿島(タケミカヅチノカミが祭神)がある。

以降、日本は争いの少ない国となった。応仁の乱や戦国時代や戊辰戦争はあった。けれども近代最大の内戦であった戊辰戦争ですら、米国の南北戦争やフランス市民革命と比べたら死者数はとんでもなく少ない。
戊辰戦争は約8,000人だか、世界は以下の通りだ。(アメリカ南北戦争は80万人)。

この国の平和・平定の証として、争いの少ないこの国の真ん中には、ちょうど熱田神宮があり、そこには草薙の劔(話題の三種の神器のひとつ)が収められている。

戦の少ない国にすべしという 天津神・皇孫天皇の御心であろうと思っている。

ぼくの日本の心のルーツを巡る旅は、奈良からの、京の都からの、幣立神宮からの、これから熱田神宮へと向かい、第1章を終える。

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