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【小説】ホースキャッチ2−4

 里紗は、職場の上司に連絡を取り、翌週会う約束をした。

 里紗は大学を卒業してから大手の商社に就職していた。亮介と同じくキャリア志向が強い彼女は入社してから数年は営業企画の仕事につき、身を粉にする働きぶりで、同世代では目立つ存在となっていった。さらに彼女は生来の面倒見の良い性格から、本来業務とは別に、いつの間にか同僚から仕事やプライベートな悩みなどをあれやこれやと相談されるようになっていった。

「最近新卒で入ってきた奴らはほんと働かないよな。上司が七くらい言えば十やるのが当たり前だろ。それなのにあいつら七か六しかやらなくて。毎回ダメ出ししても変わらないんだよね。困っちゃったよ」

「日野くんは仕事早いし何でも出来ちゃうけどさ、周りの人が日野くんほど優秀とは限らないじゃない。自分と同じように出来るのが当たり前だと思わないほうがいいんじゃないかな。それに人って本質的に駄目だとかここ直せとかやっぱり言われなくて、自分でもそう思いたくはないんだよね。駄目だと思っていたらいい仕事はできないじゃない」

「そうだけどさぁ、俺も上司からたくさん宿題投げられて、プレッシャー受けているからさ。それだと困るんだよね」

「そこだよね。日野くんのモチベーションがさ、いつの間にか上司から叱られるとか評価が下げられるとか他人軸になっちゃっているからじゃないの。前はそんなの気にしないで楽しいそうに仕事してたはず。顔つきが全然違ってたよ。不安とかネガティブなエネルギーって下には伝わっちゃうからさ。それをそのまま投げても誰もやる気にならないよね」


「実は僕みんなに全然ついて行けていない気がしていて。せっかく念願の会社に入れたのに、やっぱり能力が無いのかなって自信を無くしちゃって」

「そうなの? 飯田くんは結果もそれなりに出てるじゃない。この前も新しい仕事をとってきたばかりでしょ」

「はい。でも仕事が取れても、また次取れなかったらどうしようってすぐに不安になっちゃうんです。自分なりに努力もしているんですけど、周りと比べると自分がまだまだだなとも思うし」

「そうだよね。飯田くんはきっと昔からたくさん努力してきたでしょう。これができないならできるようにしよう。これもできないからこれもできるようにしようって。だけど、そうやってできるようになっても不安から行動している限りいつまでも不安って消えないんだよね」

「そうなんですよ。いつまでたっても不安が消えないんですよ。どれだけ頑張っても自分は駄目だなって思ってしまうんです」

「ずっと安心がないんだよね。でもね大丈夫。不安は誰も抱えているから。だからそんな自分を認めてあげて。安心していいの。もう不安の材料を探し続けなくていいの」

 といったように、気づくと悩み多き人達が里紗の周りにたくさん群がるようになっていき、その噂はいよいよ人事部長の耳にまで届いた。かくして里紗は人事部に配属され、組織マネジメントのプロジェクトリーダーを任されるようになった。社員のモチベーション管理やリーダー育成などに関する新たな仕組みを作り、若くして頭角を現していった。

 というのが、彼女がうつになる前のおおよそのキャリアである。


 里紗は5ヶ月ぶりにオフィスのあるビルの前に立った。

『ドキドキする。久しぶりに通るエントランス。以前なら月曜日でもいつでもウキウキしながら通り抜けたエントランス。従兄弟の家にでも行くような気分で颯爽と通り抜けていた。今日は他人の家に突然行くようでとても緊張する。前と変わらぬ守衛さんがいた。相手も私の存在に気づいている。ニコッと会釈をすると相手も返してくれたが、少し驚いたような表情をしている。エレベーターの前に来た。ボタンを押す。扉から誰か同僚が出てきたらどうしよう。どう挨拶を交わせばいいのか。数ヶ月ぶりに現れた私に突然会ったら相手も戸惑うだろうし、私も慌てて固まりそう。挙動不審にならないよう頭の中でシュミレーションして心を落ち着かせよう。嫌な汗が出てきて、引き返したい気分になる。扉が空いた。誰も乗っていない。ホッとした』

 上司は気を使って、自分達の部署のあるフロアとは別の階の目立たない場所にある個室を取って置いてくれた。

「川上、久しぶり。連絡ありがとう」

「井上さん、ご無沙汰しております。長く皆さんにご迷惑かけてしまっていて本当にすみません」少し声を震わせながら里紗は言った。

「いやいや、そんなの気にしなくて大丈夫だよ。それより元気になってよかった。何より一安心だよ」上司も久々の再会に戸惑っていたが、笑顔でそう言った。

「皆さんが気を遣ってくれてそっとして置いてくれたので、本当に申し訳なかったんですけど、仕事のことを忘れて休養させてもらってます。皆さんのおかげです」

「本当によかった。休みに入る直前は、あの川上が一体どうしたんだっていうくらい弱ってたもんな。隠しててもばればれだったからなぁ」上司は冗談に聞こえるように言った。

 里紗は少し恥ずかしそうに下を向いた。

「元気そうには見えるけど、どうなんだ? 調子は?」

「だいぶ良くなってきているので、いつ復帰するのがいいのか井上さんに相談しようと思って今日来たんです」

「そうだなぁ。正直なところ川上の抜けた穴は大きいし、今すぐにでもと言いたいところなんだけど、でも無理しなくてもいい。自分が本当に仕事ができると思えるようになってからでいい。元気そうに見えるけど、まだ本調子じゃないだろ。本当のところは」

里紗は何も言わずに黙っていた。

「俺だって人事に何年もいるんだから、こう見えて人のことは結構分かるんだ。顔つきは良くなってるけど、川上特有のオーラみたいものがまだイマイチな感じがするんだよな。何か前とちょっと違うんだよな。本当はまだ復帰できるほどではないんだろう。みんなで何とかカバーしあってどうにかなっているから慌てなくてもいいよ」

「でもいつまでもみんなに負担かけられないし、出来ることから少しずつやっていこうかなと思ってはいて……」

「でもお前の性格だと、復帰したら手を抜けないだろう。いきなり全力投球しそうだ。川上が立ち上げたプロジェクトがいくつかあるけど、どれもある程度軌道に乗るまでは進めてくれていたから、後任のやつが手分けしてどうにか回している。川上にしか出来ないこともあるけど、それはそれで仕方ない」

 上司は優しい言葉をかけてくれていたのだけれど、半年近くも休んでしまっていたら、実際は自分の今のポジションはもうないことは里紗には分かっていた。そんな甘い世界ではない。それでももう一度何かしらの形で関わりたい、自分はそう思っている、はずだった。

 上司はプロジェクトの進捗や誰が何をどう担当しているかなど詳しく話をしてくれた。けれどいざ話を聞いてみると、不思議と前ほど興味が持てていない自分がいたのだった。

『あれおかしいな。一から自分で作り上げたものなのに。話を聞いたらもっとやる気になるだろうと思っていたのに。大切に育ててきた誇らしい我が子のようなものなのに、なぜかまるで他人の子供のようだ』

 里紗は自分の冷たい反応に驚いた。

 まだやっぱり本調子ではないのかと思う反面、もしかしたら自分は自分のやってきた事に関心を失ってしまったのかもしれない、そうだとしたら関心がないものにこれからどう向き合えるのだろうと、里紗は自分の反応に背筋が凍りつく思いがして、身震いした。

「無理に休めとも言わないけど、川上にはまだまだ活躍してもらいたいから、きちんと良くなってから復帰してほしいと俺は思っている。部長には俺からきちんと説明しておくよ」

 里紗は自分の中に何かの異変が起きているのを感じた。うつになる以前と何かが違っている。確かに思考は正常化し、心も動くようになっていた。仕事も以前ほどの馬力はまだ出せないにせよ、やろうと思えばそれなりにできた。枯渇していた心のエネルギーも身体のエネルギーも確実に目盛りが増えてきていた。エネルギーは力強く回り始めていた。

 けれどそれはただ巡っているだけで、まだどこにも向かおうとしていなかった。以前ならそれは里紗の理性が指示する方向に、例えそれが間違っていようとも、そこに向かっていった。今はエネルギー自体が意志を持っているかのように、そこでじっと待っていた。鷹匠の合図を待つ鷹のようにそこを動こうとしなかった。

2−5へ続く。
https://note.com/okubotsuyoshi/n/n24a2d5e75119

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