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ファミリーヒストリー

■はじめに

100年、200年という年月は長いのか短いのか。

わたしにはわからない。

137億年という宇宙のスケールからすれば、人間の一生は一瞬である。

一方、一瞬にすぎないわたしたちの命のはかなさの中で、

わたしたちは、幸運にも同じ時代を生きている人々との連携を大事にしているだろうか。

身近な同僚を大切にしているだろうか。

この生きにくい世の中でお互いに助け合っているだろうか。

ほんの一瞬の命しか持たない者同士、

尊敬しあい、励ましあい、分かち合っているだろうか。

今回は、わたしの高祖父、曽祖父、祖父、父、そして息子たちのことを時系列に記す。

わたしたちが、ここに存在するのは、例外なく、わたしたちの祖先が、

懸命に儚い命をつないできたからである。

我が祖父、鹿十朗は、1964年、わたしが1才のときに死んだ。

わたしは彼と話した記憶はない。

彼は孤児であったし、学校にも行けなかったし、苦労人であった。

祖父、鹿十朗に「山本家のその後」を知ってもらいたいという気持ちで書いた。

だが、一般の読者にも、興味を持てるようにも書いた。

今という時代のことを理解するために、過去の時代との違いを書いた。

時代の流れを感じていただいた上で、

将来のこどもたちのために、今、わたしたちは、なにができるのか、

わたしたちは、なにをすべきなのか。

そんなことを考えるきっかけになってくれれば幸いだ。

天国のおじいちゃん、おばあちゃんへ。

わたしたちは元気に暮らしています。

あなたたちが精一杯生きたように、

わたしたちも精一杯生きていこうと思っています。


■岡山から北海道へ。高祖父と曽祖父の時代

山本兼吉は岡山県に江戸時代の後期、

西暦1840年ごろに岡山県児島に生まれた。

兼吉は、わたしの高祖父である。

江戸時代の平均寿命30~40才に対して、兼吉は76才まで生きた。

当時としては長寿といってよいだろう。

兼吉は岡山県の児島半島で塩田を営んでいた。

電波も電気も水道もガスもない時代の話である。

インターネットもない。

携帯電話も、もちろん、スマホもない時代であった。

西洋医学も健保も普及していなかった。

靴もない。素足で生活しているものも少なくはなかった。

もちろん、自動車も自転車もない。

舗装された道もない。

兼吉の暮らしぶりがどうであったのかは知るよしがない。

塩田を所有していたぐらいだから、それなりの人であったかもしれない。

庄屋や武家など、経済力を持つ者たちが塩田の所有者であったからだ。

明治政府が塩の統制価格を廃し、塩価を自由化してから、塩の価格が暴落した。

塩田の経営は楽ではなかったようだ。

国内では競争力が高いといわれている瀬戸内の塩田でさえ、

廃田、棄田となったところも少なくない。

さて、兼吉には金次郎(わたしの曽祖父)という子がいた。

金次郎は、だが、兼吉から岡山の児島塩田を相続しなかった。

なぜならば、金次郎は故郷である岡山を離れて、

遠い、北海道の地へ開拓民として移住したことがわかっているからだ。

金次郎は1860年ごろに生まれた。

1906年(明治42年)に40代の若さで死去。

1868年が明治維新だから、明治時代をどっぷりと生きた人である。

時代はというと、

金次郎が幼いのころ、明治政府は人力車の営業を許可し、

1873年に人力車の普及は1万台を超えたという。

エッサ、エッサとカゴで人を担いで移動するカゴ屋家業は

人力車との適合競争に敗れ、淘汰されていく。

カゴは速いもので40分4キロのスピードであった。

だが、人力車は急ぎの場合は二人引きや三人引きで駆けた。

1880年代以降、鉄道が30キロを50分で走り交通主役に躍りでる。

大量輸送の始まりである。

カゴから人力車へ。馬車から鉄道へと時代は移っていく。

今、当たり前になっているインフラはないに等しい。

往来にはガス灯も電灯もなく、湯に行く時は提灯を持っていく。

金次郎の結婚は早かった。

それは最初の妻が1889年に死去したことが戸籍からわかっているからだ。

金次郎がまだ20代後半のときであった。

明治初期、結婚平均年齢は男子20才、女子14才であった。

いまは男性も女性も30才程度であるから、随分と晩婚になったものだ。

少子化社会になるのも頷ける。

世情はといえば、蒸気機関による産業革命が日本に押し寄せていた。

軍事力で勝る列強がアジア諸国を植民地化していた。

朝鮮半島や中国北部を巡って、日露の対立も激化していた。

日露戰争の前夜である。

国防の観点からも北海道への移民政策を明治政府は大々的に打ち出していた。

金次郎と兼吉との親子間に何があったのかわからない。

とにかく、金次郎は岡山を離れ、北海道の長万部へと移住した。

岡山の児島塩田は相続されず、そのまま山本家の土地として、

瀬戸大橋の開業まで「放置」された。

瀬戸大橋開業を急ぐ岡山県が山本家の児島の土地を買い上げて国有化したのが

1985年のことである。

岡山県庁の方が、児島の山本の土地を国有化したいと、

父の実家を、「岡山県庁作成による」山本の家系図を持って訪ねてきた。

戸籍情報から作成したものであった。

わたしは高祖父の兼吉と曽祖父の金次郎のことをその家系図から知った。

兼吉は岡山に残ったのだろうか。それとも一緒に北海道にいったのだろうか。

金次郎は妻に先立たれていた。

その失意の中、開拓移民として北海道に渡ったのだろうか。

あるいは、塩田では食べていけなくなり、半ば、塩田を放置して、

親族一同で北海道に渡ったのだろうか。

何もわかっていない。

ひとつだけ、確かなことがある。

北海道長万部は農業には向かない厳しい土地であったということだ。


■移民と北海道

1869年、それまでの蝦夷は北海道へと名を変えた。

北海道の原野の開拓は、明治政府が最も力を入れる事業のひとつとなった。

1870年代、政府は1400万円という巨額を投じて北海道の開発を行った。

当時の1円がいまの3800円程度であるらしいから、

明治の1400万円は現在の500~600億円にあたる。

北海道の開拓にあたっては政府は米国に協力を頼み、

米国から家畜、農具、技術者を派遣してもらった。

北海道は対ロシア防衛の拠点である。

同時に、日本を支える食糧自給の希望でもあった。

政府は北海道の開拓を急いでいた。

四民平等となり、禄を失った氏族の没落が大きな社会問題であった。

およそ100万人の武士が失業していたからだ。

氏族救済と北の守りを兼ねた屯田兵制度によって、

士族たち屯田兵は原始林を七万町歩の農地に変えていく。

冬に巨木を伐採していくが、雪の上からの伐採なので、

雪が溶けると切り株の高さは1メートルを超えていた。

だから、雪融け時には、再度、切り株を伐採せねばならなかった。

1876年には米国マサチューセッツ州立農業専門学校長のクラークを召喚、

札幌農学校を開校。後の北海道帝国大学となる。

「大志を抱け」で有名なクラーク博士の年棒は7200円で参議、

大久保利通の年棒500円の10倍以上の高給であった。

教員は年棒100~200円程度であった。

鉄道は都市部では即座に収益化された。

1873年の新橋ー横浜間の営業収支は21万円の黒字となる

初年度にもかかわらず1日平均4000人以上の利用であった。

北海道でも新鉄道事業が起工。

1880年に幌内と手宮間が開通した。

本土の鉄道がイギリスからの技術導入であったのに対して、

北海道の鉄道は米国からの技術導入であった。

また、都市圏の鉄道が旅客主体であったのに対して、

北海道の鉄道は貨物中心であった。

石炭は無料で運ぶ取り決めとなったため、

北海道の鉄道の収支は当初から赤字であった。

現在でもJR東が高収益なのに対して、JR北海道は低収益である。

北海道の幹線の整備には囚人が動員されて、

その多数が過酷な労働と劣悪な環境下で死亡した。

北海道の人口は劇的に増加した。

1880年に30万人程度だったが、

1910年には150万人に増加している。

この間、わずか30年間である。

金次郎も1905年までには長万部に移住したことがわかっている。

金次郎の子どもである鹿十朗が長万部の生まれだとわかっていることと、

鹿十朗が1905年に生まれた事実からである。

広大な開拓地に夢をはせて北海道に渡った多くの開拓民たち。

金次郎はその一人であった。

移住の前後で金次郎は再婚した。妻の名前はウリといった。

1905年にわたしの祖父にあたる鹿十朗が長万部で生まれた。

二年後に鹿十朗の弟の一馬が生まれた。

一馬は生涯、長万部で暮らした。戦後は洋服屋を営んでいたという。


■開拓の地での困窮生活

一般に、北海道開拓者たちの生活は困窮を極めた。

寒冷に加え、ガス、電気、灯油などのインフラが整わない時代の北海道である。

さらに、長万部は農業には全く適さない土地であった。

開拓者たちは想像を絶する大自然に直面した。

天を覆うほどの巨木を人力で伐採していくのである。

寒冷の湿地や泥炭を道産子の耕馬で耕していく。

すべてが未開のまま、開拓生活はまずは貧相な小屋で始まった。

カラスやクマの被害も大きかった。

まだ、休日とか日曜日という考え方はなかった。

毎日、働くのが当たり前の時代であった。

困窮の中で、金次郎は1908年に死去した。

わたしの祖父、鹿十朗はわずか3才のときだ。

1910年代には北海道を大飢饉が襲う。

イナゴの対文が一葉半片も残さすに草も木も食い尽くした。

虫の体が地面を覆い尽くしたという。

これが2年続いたという。

多くの家庭で食品が底をつき、川辺に小魚を漁り、

山野にユリの球根を求め、フキを採取、

だが、飢えが勝る。

ブヨ、蚊などの害虫を防ぐ手立てもない。

防虫剤、殺虫剤、蚊取り線香などもない時代だ。

布に体をつつみ寝るしかなかった。

鹿十朗の母ウリが1913年1月11日に死去。

ときに、鹿十朗は8才、弟の一馬は6才であった。

兄弟は幼くして両親をなくした。

岡山に残り塩田を所有していた兼吉(鹿十朗にとっての祖父)が

1916年9月8日に死去してからは頼る身内もいなくなった。

そのころの思い出を祖父、鹿十朗は生涯、誰にも話さなかった。

1919年、北海道長万部高等小学校を卒寮した鹿十朗は

名古屋に出稼ぎに出ることになった。

その年、北海道帝国大学に医学部が設置された。


■祖父、鹿十朗、名古屋へ。激動の時代。

日本は激動の時代を迎える。

1923年、関東大震災。

1927年、金融恐慌。

1928年、世界大恐慌。

ストライキや労働争議が多発した。

1930年、「エコノミスト」誌の推定の当時の失業者は

120~130万人で多くは都市失業者であった。

政府は、都市失業者に帰農を奨励したが、農村は恐慌で疲弊し、

餓死者が続出していた。

1928年。男子25才以上であれば投票できる普通選挙が実施された。

無産政党が普通選挙で当選した。だが、その直後に弾圧される。

名古屋に出稼ぎに出ていた鹿十朗は20代後半に結婚することになる。

喫茶店をある姉妹がきりもりしていた。その姉である、とみ江と結ばれた。

(本名は、とみゑ。とみ江は俳号)

とみ江は、わたしの祖母である。

鹿十朗と、とみ江の夫妻に長男、登(わたしの父)が誕生する。

1935年のことである。

そのころ、

ラジオの受信契約者数は200万を突破していた。

だが、受信機は一台27円とまだ高かった。

東北の村では凶作が続き、多くの娘が売られるなど、

日本にはまだ国民に基本的人権が認められていなかった。

昭和という時代は、人身売買が公然と横行していたのである。

現行憲法ですべての国民に基本的人権が認められたのが戦後のことである。

医療制度や生活保護制度などの確立は人身売買や劣悪な労働状況や

飢餓という痛み知る人々が勝ち取ってきた権利である。

わたしたちは権利の上に、単に安住してはいけない。

現状の国家財政を鑑みると保険医療や生活保護などの制度の存続が危ぶまれて

いる。

言論の自由もなく、人身売買やテロが横行した戦前のような時代に戻ることを

多くの国民は危惧している。


■焼き尽くされた名古屋。食なく家なし。祖父母、鹿十朗ととみ江の苦労

 貧しい農村では木の芽や草の葉をまぜた薄い粥で飢えをしのぐしかなかった。

東北出身の詩人、宮沢賢治は開花しない稲を前に、

なすすべを知らない農民の姿を「サムサノナツハオロオロアルキ」とうたった。

農民はヒエに期待をしたが、5分しか収穫がなかった。アワも冷害で大減収。

じゃがいもは全滅という有様で乳幼児は生まれてもただ、死ぬしかなかった。

後を絶たない娘の身売りが重大な社会問題になった。

飢餓を逃れるために、東北地方から大量の求職者が都会へと流れていく。

娼婦に売られるのを間逃れ女工に就職できた場合も労働条件は劣悪であった。

1935年当時、ビール一本は大瓶で37銭。

国産の電気冷蔵庫が登場した。

掃除機や冷蔵庫は高額で600円~800円であった。

掃除機の普及はわずか6000台程度、

洗濯機は3000台程度の普及であった。

冷蔵庫は12000台の普及であり、サラリーマンには高値の花であった。

やがて太平洋戦争に突入。

「欲しがりません勝つまでは」と精神論で頑張ったが、

結局、連合軍との圧倒的な軍事力の差は如何ともし難く、日本は敗れる。

サイパン島を失ってからは、日本の本土にB29の大量爆撃が始まった。

それでも日本政府は戦争を止めなかった。

1945年3月10日午前0時7分、東京大空襲。

およそ10万人の市民が犠牲になった。

猛火に追われて川に飛び込んだ人々を熱風が襲った。

ほとんどが酸欠死、窒息死、あるいは溺死、凍死であった。

せめて、卒業式だけは東京でと3月9日に

台東区柳北国民学校の6年生が集団疎開先から帰京。

悲劇としかいいようがない。

帰省初夜に多くの学童が犠牲となった。

軍事工場が集積していた名古屋は合計38回もの爆撃を受けた。

三菱重工の戦闘機生産工場は徹底的に狙われた。

焼夷弾ではなく、爆弾による徹底破壊であった。

6月26日の名古屋大空襲はB29が350機来襲。

名古屋市は全市の7割を失った。

隣組で市民はバケツリレーで対抗しようとしたが、

無理な話であった。

尾張名古屋は城で持つといわれた名古屋城の金の鯱鉾は熱で溶け落ち、

城は石垣と土台を残すだけで落城した。

1945年までには名古屋は大空襲で焼け野原になり、

家も焼けてしまった。

当時10才だった登(わたしの父)は家が燃える様子を覚えているという。

B2917500機の恐るべき破壊により、

日本の主要66都市で合計4400キロ平方メートルが焼失した。

それでも政府は戦争を止めず、

「家は焼けても心は焼けず」と戦争を継続した。

家が焼かれてから、鹿十朗一家は、

とみ江の妹きくゑの家に一週間ほど滞在した。

その後、鹿十朗は、アルプスに一家を連れて行った。

仕事のオファーがあったからだ。

日本はそのとき、材料不足で、

金属製品は、もはや生産できる状況ではなかった。

つまり、新たに戦闘機が作れない。戦える状況ではなかった。

それにも関わらず、軍部は木材ならあるだろうと、

木製グライダーをつくり、

即席のグライダーで米軍と戦おうとしていた。

飛行訓練はアルプスで行われていた。

鹿十朗は、グライダー向けの木材を切り出す、

臨時の木こりとして、アルプスで仕事についた。

家は焼かれた。

とみ江は妹と喫茶店を切り盛りしていたが、

もはや、コーヒー豆の輸入が途絶え、

営業できる状況ではなかった。

そこで、一家はアルプスに移ることになった。

一家は、夏の間は、木々に布を垂らすだけの家のようなものに暮らした。

そして、1945年8月の終戦を迎える。

アルプスで冬を越すことはできないと判断し、

一家は、秋に名古屋に戻ってきた。

鹿十朗一家はなんとか生き延びた。

戦争直後は食なく家なきインフレ時代であった。

食糧難は戦時中にまして深刻化した。

1946年5月の「米よこせ」食糧メーデーで

皇居前に25万人の労働者が集結した。

首相官邸へデモ行進を行った。

終戦の年の米作は不作で平年の半分以下であった。

名古屋でも食糧の遅配、欠配が続いた。

「日本1000万人餓死説」が流れた。

栄養失調で亡くなる人が続出した。

そんな中で、鹿十朗は田舎まで出向いて、

野菜を買い出しにいき、

焼け野原の名古屋で路面で八百屋を行った。

子どもたちも野菜売りを手伝った。

その後、朝鮮戦争特需などにより、日本経済は持ち直した。

日本経済は、60年代の高度成長期に突入する。

鹿十朗一家は、食堂を名古屋市黒川で営むことになった。

食堂は山本屋食堂といった。

食堂経営は、順調であった。うどんが儲かった。

一方、ご飯ものは儲からなかったらしい。

出前が増えていった。

警察がお得意様に。その後、役所がお得意様になった。

出前は、わたしの父である登の仕事であった。

鹿十朗ととみ江夫妻は食堂を営みつつ、4人の子を育てた。

子どもも商売を手伝うのが当たり前の時代であった。


■戦後の名古屋。父母の時代へ。

父、登は、食堂を継ぐつもりはなかった。

父は、江戸川乱歩のデビュー作である「二銭銅貨」を読み、

読書の面白さをしった。

また、山本屋食堂には、古墳発掘で明治大学の発掘チームが

滞在中に来てくれた。

父が15才のとき、1950年に名古屋市北区の白山藪から

5世紀のものと思われる前方後円墳から鏡や鉄製の刀などが発掘されたからだ。

少年時代の父、登は、明治大学生との交流で、大学の存在を知った。

また、考古学や歴史というものに興味をもつきっかけになった。

昼間は山本屋食堂の出前があるため、高校は定時制高校であった。

幸い、近くに明和高校があり、そこで勉強した。

父の時代はまだ、大学進学率は低かった。

父の60人の中学校の同級生のうち、大学に進学したのは2人だけだった。

とみ江がわたしに話したことがある。

「夜中まで捩り鉢巻きをして勉強していた」と。

昼間は働いていることもあり、受験は3教科だけの私学を受験した。

私学で学費が安かった立命館大学を受けた。

最初は、大学も夜学であった。

立命館大学で日本史を勉強し、就職は名古屋で社会科の教員となり

定年まで勤めた。

父と母との間に長男であるわたしが1963年10月に生まれる。

鹿十朗にとっての初孫である。

翌年、東京五輪開幕。東海道新幹線が開通する。

黒川の食堂の前で、鹿十朗とわたしとの唯一といってよい写真が残されている。

わたしは1才に満たないころであろう。大泣きをしている。

そのわずか数ヶ月に鹿十朗死去。享年59才であった。

妻、とみ江は、1965年に商売をやめて、

黒川の土地を隣のパチンコ屋に売却する。

商売は父の弟、弘がその後春日井市で継ぐことになった。

一家は現在の名古屋市守山区に引っ越すことになった。

1966年のことである。

何もない守山の地に引っ越した理由を母は「子育てのためだ」といっていた。

道路は舗装されておらず、空き地と田んぼだらけの守山で

1968年にわたしに妹が生まれる。

とみ江の趣味は土地の売買であった。

角地を買い、値上がりするまで待ち、売り抜けることであった。

高度成長期にはその投資法はうまくいった。

だが、失敗もあった。

それが名古屋市北東辺の守山の土地と岐阜山間のひるがの高原の土地だった。

この二つは何年しても値上がりしなかったからだ。

それで、売れない土地、守山に一族郎党を引き連れて

現在の守山に移ることになった、というのが真相なのかもしれない。

現在は、公共交通も整備され、守山は人口が増加している。

山本家が守山に引っ越した昭和30年代は

守山区の人口は6~7万人程度であったが、今では20万人に近い。

わたしの祖母であるとみ江(鹿十朗の妻)は、

ひるがの高原に別荘を建て、夏、そこで過ごすことを楽しみにしていた。

とみ江の長男、登(わたしの父)は教員であり、

長い夏休みがあり、比較的ゆったりと休みがとれる。

わたしが子どものときの我が家は、毎年、夏休みは

ひるがの高原ということになる。

わたしにとって、幼い日々の貴重な毎夏の思い出である。

とみ江は自らのことにはお金を使わず、

4人のこどもたちのためにお金を使った。

子ども4人にそれぞれ一軒家を建てた。

商売引退後も暮らしていけるようにと、賃貸アパートも建てた。

ひるがの高原に別荘を建てた。

ここに行く、あそこに行くと、子たちと旅をした。

料金が高い旅館に泊まると、

いつも子たちを叱った。「この旅館は高すぎる」と。

ただし、そうはいっても、とみ江が詠んだ俳句は、

子の心素直に受けて下呂の雪。

とみ江は俳句をよく詠んだ。

子規顕彰全国俳句大会で入選する。

ひるがの高原で詠んだ一句を応募した。

髪カット七月の空軽くせり。

とみ江が入選したのは1983年のことだが、たとえば、

2015年の子規顕彰全国俳句大会はおよそ9000通の句の応募があり、

入選作は40であったことから入選は狭き門であったのだろう。

とみ江は晩学であった。

ノートも持たず、

広告の裏(当時の広告は両面印刷がなく、裏面は白紙であった)に、

短くなった鉛筆で俳句を詠んだ。

孫のわたしにも、晩学の苦労話をした。

祖母が台所で漢字の練習をよくしていたのをわたしは覚えている。

秘す晩学届かぬ詩へ夏の果て。(ひるがの山荘にて)

祖母とみ江の俳句には、亡き夫の鹿十朗を偲ぶものがいくつかある。

亡き夫(つま)の残り香のする夏帽子。(ひるがの)

話しかけ語りつ亡夫(つま)の墓洗う。

こもごもと語る亡夫と十二月。

亡き鹿十朗にとみ江がこもごもと語ったことはなんであったのだろう。

4人の子ども達のことだったのだろうか。

あるいは、わたしたち孫たちの成長であったのだろうか。

祖父母の子育てに関して。

昭和20年代と30年代の食堂経営時代のとみ江は

子どもの学校行事には一切行くことがなかった。

店が忙しかったからだ。

父母の子育てに関して。

守山の田舎で、わたしの母がPTAの役員になり、

母はわたしや妹の学校行事にはいつも参加してくれた。

そして、父、登は、

「親が子の教育に関わる、ようやく家庭らしい家庭が築けた」

と思ったそうだ。

父、登は、よき父であった。

父はよくキャッチボールをわたしとしてくれた。

ソファや机や本棚などの家具を日曜大工でコツコツと製作した。

美術全集、文学全集、クラシックレコードの全集などを置いて、

「そばに本があふれる空間」を用意した。

祖母、とみ江も俳句、華道、踊りなど、習い事に精を出した。

芭蕉を尊敬して、各地を回って俳句を読んだ。

晩年、句集を2冊出版した。

「句集 鮎の宿」(1985年、東海共同印刷)

「句集 寒梅」(1992年 東海共同印刷)

日本は食えない時代からようやく脱却して、

精神的な欲求、文学、音楽などの芸術への欲求を満たせる時代になった。

高度成長期の時代の恩恵を真っ先に受けたのが、

わたしたち「戦争を知らないこどもたち」である。

平和な時代、家庭での愛があふれる時代にわたしは育った。

進学校には塾にいかなくてもいける時代でもあった。

現代のような経済格差はなく、私立の中学校はほとんどなかった。

だが、わたしは、音楽の道を目指していたこともあり、

ほとんど勉強はしなかった。


■名古屋から東京へ。わたしたち夫婦の取り組み

わたしは名古屋を出た。

東京で職を見つけたからだ。

平成2年に就職し、バブル世代と呼ばれた。

証券業界で30年近く働いている。

2000年に東京都江戸川区のマンションを購入した。

わたしは1995年に結婚した。

1997年、長男が誕生した。

1999年、次男誕生。

そして、次男を抱いた後、とみ江はガンで入院。

そのまま、1999年に鹿十朗のもとへと旅立った。

とみ江、享年90才であった。

我が家では、その後、

2003年に三男誕生。

2005年に四男が誕生。

わたしたち夫婦は、四人の子どもに恵まれた。

わたしは、中学生や高校生や大学のとき、勉強が得意ではなかった。

ピアノや作曲やバンド活動に明け暮れていた。

だが、不思議なことに、就職してから、勉強が面白くなった口だ。

19年間社会人学生をしている。

とみ江の血だろうか、晩学なのであろう。

一方、我が妻も宝石の学校、デザインの学校と、

かれこれ10年以上通学している。

これが、東京在住のよいところで、

ニッチな分野に一流の先生が近くにいて、習うことができる。

妻はジュエリーをデザインして、石を選び、金型も自作して、

年に一回、展示会をしている。

これらは子育てには悪いことではないと思っている。

親が好きなことをやっているので、

子どもも自分が好きなことは大人になってもできるのだ安心するだろう。

子どもには、恐怖心や心配や競争は不要だ。

わたしたち夫婦の子育て。

親が好きなことに打ち込む姿を見せることが、一番の教育だと考えている。

そして、兄弟を差別しないこと。

比べないこと。


■再び北海道へ。山本家100年振りの帰還。息子たちの時代

2016年春、わたしたちの長男が、小児外科医を志し、

北海道大学医学部を受験。合格した。

我が家は開業医でもないため、長男は勤務医となるつもりだ。

一流の小児外科になった後に、宇宙飛行士に応募して、

火星に行くのが長男が高校三年生のときの夢であった。

北大医学部は1919年の創立。

日本で最も歴史のある医学部のひとつだ。

医学部の最初の講義はラテン語とドイツ語で行われたという記録が残っている。

2019年に北海道大学医学部は創立100周年を祝う。

1919年といえば、鹿十朗が高等小学校を卒業したと思われる年である。

北海道から名古屋に出稼ぎに出た頃である。

鹿十朗のひ孫、登にとっての孫、わたしたちにとっての息子は、

これから、北海道を拠点とする。

山本家、100年振り北海道へ帰還。

野球が得意であった我が父、登のように、息子は大学で野球部に入った。

音楽が得意なわたしの影響もあって、息子はドラムが生涯の趣味になった。

いろいろなものを息子は、先祖から受け継いでいる。

江戸時代の兼吉の岡山の塩田経営、

明治の金次郎の北海道開拓、

大正、昭和の鹿十朗の出稼ぎ労働者、

戦後、名古屋で食堂商売、

父、登の名古屋での教員生活、

平成、わたしの東京での証券マン人生。

北海道で医者となる長男。

これからは、息子たちの時代である。

ざっと、150年ほど、高祖父、曽祖父、祖父、父。

そして子どもたちのことを振り返った。

長万部には鹿十朗の墓がある。

祖母、とみ江が晩年に鹿十朗を忍んで建てたものだ。

昭和55年、1980年に建立した。

そのとき、とみ江は北大のある札幌に立ち寄っている。

時計台鉄筋包む今朝の秋。

今別れ又何の日ぞ秋の墓地。

わたしたちの生きる社会は幸せだろうか。

毎日ようにテロが起こっている。大災害も頻繁に起こっている。

だが、一方で、社会は確実に豊かになっている。

そして、日本は、そうはいっても、平和だ。

この平和は多くの犠牲の上に勝ち取られたものだ。

基本的人権もある。言論の自由もある。

生活保護があり、健康保険もある。

インターネットもあり、スマホもある。

電化製品があふれる、モノが豊かな時代となった。

勉強したければ、無料で勉強できるアプリも多数ある。

格安チケットで世界中を飛行機で移動できる。

だれでも自分のことをフェイスブックやブログに画像や映像付きで

書き残すことができる。

一方で、この時代は、格差社会といわれている。

ブラック企業が問題となっている。

若者の就職難は続いている。

給料が上がらない。

老後破産が相次いでいる。

国家間の緊張が高まり、改憲、国防が新たな国家課題になりつつある。

子どもの世代、孫の世代に、平和な社会がこれからもずっと続くようにと

願わずにいられない。


2016年7月記す

日本株ファンドマネージャ
山本 潤

参考:

毎日新聞社 昭和史
北海道大学医学部50年史

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