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パートナー

 俺は朝からムラムラしていた。原因ははっきりしている。菜摘がセックスを断るからだ。悪阻がひどくて無理だと言う。どうしてもできないなら店でしてもらう、そう言うとしぶしぶ、仕方なく機嫌の悪い顔でベッドに寝そべる。飛び回る蝿を忌々しく見つめるような表情、二週間ぶりの俺の鼓動はへし折られた。とびきり丁寧に、とびっきり優しく菜摘の体を包み込む。そして濡れる。鋼鉄のパートナーが俺を急かす。まぁ待てよ、久しぶりなんだからゆっくり楽しもうや。菜摘の口元にパートナーを近づける。右手で位置を整え、半開きの唇に押し込む。菜摘もやるべきことを知っている。俺が教えた通りに大事そうに、巣から落ちた燕の子を掬うようにパートナーに触れる。何事もなく温度が俺の下半身に伝わる。完璧だ。

「舌でほら、アイスみたいに」

それが俺の声なのか、パートナーの声なのか、はっきりする前に菜摘はやっぱり無理だと背中を向ける。下着を身に付け緩めのブラジャー、Tシャツだけでソファーに横になってしまう。俺は裸のままでベッドの上。いったいこれからどうしろと言うのだ。途方に暮れたのは俺だけじゃない。ほら見ろ、行き場をなくしたパートナーの怒りを。ギンギンじゃないか。

菜摘の脚の間から覗く適度に盛り上がる丘陵を恨めしく見つめる。縞々パンティに守られた宝物は寸前のところで悠久の夢と散った。儚い。それが昨日の晩の話だ。おかげで朝からおかしな気分になっている。電車で見ているスマホの広告、スパリゾートの水着美女にやたら目がいく。どれくらい柔らかいのだろうか。

車内は混雑している。みなさん真面目な心境で、これから職場に向かうのかと思うと、独りよがりな性欲を抱えて同じ車両に乗っていることが申し訳なく思えてくる。通勤電車ではもっと崇高な、国際情勢や政治経済、社会問題などを眠い頭で考えるべきなのだ。それが経済大国で暮らす会社員のあるべき姿だ。人目を気にしながら『巨乳 モロみえ』とか検索してる場合ではない。駅が近づきアナウンスが流れる。我慢しろ、ここで動画を見てはいけない。

駅に着くと降りる人間より乗り込む人間が多いから、どうしたら乗れるのかわからないのに乗り込む人、人、人。僅かに腕が動くだけの直立。この状態が二十分は続く。俺の目の前、いや、肩が触れあうおっさん。初対面のおっさんと体を密着させることほど悲しいものはない。ふつふつと浮き出る汗、頭皮が剥き出しになっており、数本残るばかりの白髪は風もないのに揺れている。未来のお前だよ、と言わんばかりの窮屈そうなおっさんの苦悶が俺を絶望に誘う。

車両は地下に潜り込む。ビル群が途切れ、夜の海辺を走るような静けさを手にいれる。痩せ細った若者がやかましい音楽を聞き、誰かがくしゃみをする。どこかで携帯が鳴る、鳴るけど出られるわけがない。数十秒は鳴り続いたかと思う頃、ドアが開き、おっさんは降りていく。俺は人波に呑まれぬように踏ん張る。あと二駅だ。

ドアが閉まり電車は走り出す。おっさんと入れ替わりで乗り込んできたのはスーツに白シャツ、見るからに出勤前のオフィスレディ。嬉しいことに体が触れ合う。ガラス越しに見ると若い。首元まで留めたボタンは大きな胸のせいで弾け飛びそうだ。肩まで伸びた茶色の髪からはシャンプーが香る。ちょうど真後ろに立つ俺は、不本意ながら一本一本の毛並み、つむじの様子が気になってしまう。皺ひとつない紺のスカートに俺の太ももが擦れて、繊維同士が絡まる音がする。太ももが、太ももが、太ももと太ももしてしまっているのだ。

もちろんこれは望んだ接触ではない。左右に揺れながら線路を走るさいに起きてしまう物理現象だ。まったく自然科学への知識が乏しいから詳しいことはわからない。鉄道工学の専門家ならば車両の混み具合、動力系統や軌道が乗客に与える力学的な影響を説明できるだろうから、俺にもしものことがあれば是非とも声をあげて頂きたい。一言だけ言わせてもらえるならば、これは非常においしい時間である。憮然とした面持ちで、自力ではどうにもできない現象に身を任せるばかりだ。突如としてブレーキがかかる。乗客が雪崩のように動き、押し潰されそうになる。支えるものがなかったために女の肩を掴んでしまう。女は肩を強ばらせて警戒する素振りを見せる。俺はすぐに離す。すみません、と声をかけてガラスから窺うと小さく頷いた。

丸顔で眉は垂れ、ちょうど丸々と成長した小ねずみのような面持ち。幼さが残る女の一瞬だけ見えた怯える目は出勤前のムラムラを抑え込むには十分すぎるほど良心に響くものがあった。

駅の到着を知らせるアナウンス。暗い外の景色に明かりが指す。降りようと体をずらす。その時だ、女の腕が伸びて俺のパートナーに触れたのだ。これはどうしたことだろう。偶然に手が触れた、というならば理解はする。なにせこの混み具合だ。図らずも太ももの一件があったため、意図していない接触は何ら不自然ではない。それどころか歓迎したいくらいだ。でも違う、女の指先には意志の強さがある、とパートナーが訴える。

車両が停止する。駅名が伝えられ、ドアが開く。流れに従いホームに足を降ろす。大勢が降りるから、立ち止まることができずにそのまま先に進む。立ち止まるな、という駅員の声がする。それはまるで途絶えかけの意識で聞く皮膜に阻まれた警報のように耳に入り込んでくるのであった。

行きつけの定食屋で昼飯を食べ終えて一息ついていたら電話がある。高志からだった。

「最近どうよ、奥さんイライラしてないか」

大学時代の友人だ。卒業してからコピーライターになるために半年ほど養成校に通っていたが、どこにも引っ掛からずに地元の親戚を頼り、海に出る生活をしている。

「つれないねぇ、妊娠したら女は変わると言うけれど、しんどくて作れないって飯がないときもあるし」

高志はおおいに笑う。俺が送ったメッセージから近況を把握しているのだ。話せる相手のいない愚痴を独り言のように送ってはちょっとした暇潰しにしている。『既婚者が語る結婚のメリット、デメリット』などは強い興味を持ったようで、多くの質問を受けた。まじかー、参考にするわ、それがあいつの口癖。聞きたいことがなくなると、頼んでいないのに独身者が語るメリットだらけの暮らし、というリストを送りつけてきた。女遊び、飲み、車、パチンコ、昼寝と続く。あぁ、羨ましい!

「お前が一号だからなぁ、大学の連中は誰も結婚してないから気楽にやってるぜ。子供の顔が見れると思って頑張れよ」

「言うのは簡単だけど同じ立場になってみろ、洗ったけど干してない洗濯物が積み上がってて、悪いけどやってくれるって洗濯し直しだ」

妊娠してからの数ヵ月で生活は大きく変わった。タバコをやめたり、仕事を早く切り上げたりして菜摘の言い分を聞いてきた。それでも不満があるようで、矛先は俺に向かう。飲み会で帰りが遅くなったことがあった。タクシーで帰るなりあいつは怒鳴り散らしてテレビリモコンを投げつけた。

「いい加減にして! こんな時間まで何してんのよ」

菜摘が声をあげるだけでも珍しいのに、リモコンまで飛んでくるとは考えもしなかった。壁にぶつかり電池カバーが吹き飛び、固定する部分の爪が折れてしまった。

「どうした、落ち着いて」

のんびり風呂でも入ろうとしていたけど、それどころじゃない。酒くさい、もう嫌、と叫んで俺を玄関に押しやろうとする。信じられない、と言うけれど何もわるいことはしてないじゃないか。何を言ってるんだ。

「しんどいのに全然わかってないのよ、ちょっとは私のこと考えてよ」

菜摘は髪を振り乱して俺の不備を指摘する。なんで私だけこんな思いをするのよ、と言うのだ。こんな思いもなにも俺にだって職場の付き合いや取り組む仕事があるのだ。遊んでいるわけじゃない。そう言い返すと、もう産めない、こんなんじゃ一緒にやっていけないと泣き出してしまうのだった。俺にできることってあるの? 産むのは菜摘じゃん。男にできるのは見守ることだろう。そんなわけで菜摘とのやり取りに疲れてしまい、家に帰るのが億劫になってしまった。

高志は言う。

「いやー、おまえ凄いよ、よく堪えてるな。俺ならぶん殴っちゃうわ」

「頭にきて一回やっちゃった」

言いにくそうに言うと盛り上がりは加速する。おまえ、それすげーな! すげーすげー、マジすげー。電話口で飛び跳ねて喜ぶ高志は興奮し過ぎて電話を落とす。ゴゴトンという音と共にやべっ、と焦る声が聞こえて、世界は平等じゃないと思うのだった。

「で、どうなった?」

今さら思い出して喋るのかと思うと気が進まない。俺の記憶の中でもかなり深い底、掘り起こそうにも地質が変わっていて、このシャベルじゃ無理ですね、と諦めるほどの根深い記憶の大河の底の底にしまってある出来事を説明するなんて憚られて仕様がない。

「タバコ、二箱でどうよ?」

安いなぁ、それにもうタバコやめちゃったし。後学のために教えていただきたいとひどくしつこいので教えることにする。

「疲れたとか、やりたくないとか言うからさ、もう、ふざけるなって思って。こっちは仕事を頑張ってるのに、うちのことはしないし、でも俺の生活が気にくわないとか言うからグーで頭をバーン」

「おぉ、過激ぃ!」

「そしたらすごく泣いた。よろけて机にぶつかって、ぺたんと座り込んだからざまぁ見ろって」

「わかるー」

「でもなんか泣いてるところ見てたら、なにやってんだろうって思えてきて、痛かった? って聞いた。そしたら、あいつなんて言ったと思う?」

高志はわからないと答える。

「離婚して」

「きっつー、きっついなーそれ」

「家庭の崩壊だからな。そんなの言われたことないだろ」

「ない、てか結婚してない。で、どうしたの」

「謝った。本当に悪かった、二度としないからそんなことは言わないでくれ、話し合いだよ、これからどうしていくか」

「ちゃんと話し合うのね、おまえやるじゃん」

「検診に一緒に行く、家事をやる、できるだけでいいからできないときはつらい気持ちを聞いて欲しい」

いい夫として生きることにした俺の一部始終を話す。高志は結婚って大変なんだなぁ、とありきたりな感想を述べた。次第に既婚者の人格に敬意を込めた態度に変わる。高尚な説教に耳を傾ける教徒の息づかい。俺は自分が少しだけ優勢な気がしてきた。あいつは持っていない。俺は持っている。家族を。

「泣きじゃくったあとはいい感じでベッドに移動、甘美な夜の幕開けであった」

「のろけか死ね」

「と思うだろ? 実際は何もない。そんな気分じゃないからと突き放されたわけ。現実だ、これが」

高志に結婚願望があるとするならば、もしくはあると仮定して、俺の経験はその願望を打ち砕いたことだろう。結婚するのはためらうなぁ、と言う。しても地獄、しなくても地獄。誰にでも続けられることではないのだ。離婚を選ばずに、今も俺と菜摘を繋ぎ止めているものがある。

幸せかと聞かれる。そこそこの幸せだと返事をする。大人になったのだよ、俺は。

「子宮を冷やしてはいけないの」

夏も半ばを過ぎた頃、草木が隆盛を見せ、暑さが目を締め付ける日だった。アイスコーヒーの氷がとろけてしまったから入れ直そうかと思ったところだ。

「この時期はとても大事な時期だから、わかってるよね。冷やしすぎて子供に障害が出た人がいるって。私はいらないから」

親切に冷たいものでもどうかと言おうとして止めた。そこまで神経を減らさなくてもいいと思うのだが、菜摘は気を使う。冷えたくらいで障害が出るというのは本当だろうか。

「それにアイスコーヒーなんか飲めない。カフェインがよくないのよ。最近飲んでなかったの気がつかなかった?」

「飲んでないと思ってたけど、そこまでは考えてなかったな」

「とにかく体に入るものは全体的に気にしてるの。ご飯だって私だけ別メニューでしょ、それは知ってる?」

なんだか空模様が怪しい。ちらりと外を見る。大きな鈍色な雲が西の方角からやってきて、我が家を覆い尽くそうとしている。時間なんて知りたくないのだ。それなのに壁にかかる時計を見てしまう。

「そうだね、それは知ってる」

「お腹が冷えないように、エアコンの温度も高めにしてるし、お酒だって我慢してるのよ」

産院からもらってきた妊婦の生活という冊子に書いてあった。運動と食事、睡眠を適度に取り、アルコールとタバコは御法度。ちゃんと読んで、と言われたから隅々まで読んだ。読んだけれど忘れていることもある。なんだっけ、切迫なんちゃらとか、なんとか中毒とか。どうしよう、すごく心配と言われても大丈夫としか言いようがない。妊娠何週目かと聞かれても答えられないのだ。他所の旦那はどこまで妻の変化を理解してるのだろうか。堪えられなくて早々に雲隠れしてるのかも知れない。

「ねぇ、なんか言ってよ」

「わかった、食べ物で気になれば言ってくれればわかるよ」

「だから言ってるじゃん」

雨だ、雨が降りだした。乾いた土地が色を変える。アスファルトは黒くなり、車のボンネットが鳴る。ベランダの手すりに雨粒があたる。甲高い声のように打ち付ける。平日は気楽だ。長く顔を合わせなくてもいい。朝は準備があるから忙しい。夜は食事、風呂の時間が別々だから、顔を合わせるのはリビングで寝る前にテレビを見るときくらいだ。共働きで菜摘の方が帰りが早い。朝は俺の方が早い。困るのは今日みたいな休みの日。

「もういいわ」

深いため息と共に菜摘は寝室に行ってしまう。昼に食べたうどんがもたれている。喉の奥にだし汁の風味が残ったままだ。

アイスコーヒーを流しに捨てて冷えたお茶を飲む。部屋の静けさに負けてしまってテレビをつけると通販番組がやっていた。

『奥様のお悩みこれで解決、頑固な油汚れもすっきりきれい、高圧洗浄クリーナー』

歯切れのいい文句でエプロン姿の男がガスコンロの鍋を置く部分を取り外す。どうですか、こんなに汚れて黒くてギトギト嫌ですよねぇ、得意気にカメラが手元を映す。男はゴム手袋をしてスポンジに洗剤を付け、歯を食い縛り必死に擦り落とそうとする。だが落ちない。次は歯ブラシを取りだして、同じように擦る。効果は薄い。最後に取り出したのはヘラだ。お好み焼きの。それを突き立てると無駄に大きな音がして、ちょっとした前衛楽器の演奏みたいだ。結果は変わらず観客のため息が流れた。落胆と失望は男に向けられているように思えるのだが、なぜか俺の耳をそばだてる。

『しつこいですねぇ、全然落ちないんですよ。こんなキッチンだと日々の家事も嫌になりますよね。そこでこちら、ズル剥けXです』

ほらこんなに簡単、すごいでしょ。確かにすごい。先端から放出された熱湯が見る間にコンロを輝かせる。水圧が鉄にぶつかり、おぼろ豆腐が崩れるみたいにぽろぽろと汚れが落ちる。何年も放置されているトースターのとろけるチーズの塊も取れるのだろうか。

『気分晴れ晴れ奥様ご機嫌、キッチンの平和は我が家の平和。番組をご覧の皆様だけの特別なお値段です』

画面の下には大きく電話番号が表示される。わだかまったまま、菜摘を気にかけながら通販番組を見続けられるほど俺は鈍くない。途切れた会話を補修したい。

「これ、どうかな。台所の掃除が楽になるって」

はぃ? と菜摘が言う。高圧楽々クリーナーだよ、掃除が大変だって言ってたじゃん。油汚れがすぐ落ちるやつ。

「いらないでしょ、あんなのウソっぱちよ」

「でもほら、すごく落ちてる」

菜摘は目がわるい。読みかけの本をベッドに置いてからテレビに近づく。顔色を窺う、表情が気になる。

「誰が掃除するの」

誰だろう。俺、ですかな。

「お腹が大きくなってきたし体は重いし、持ち上げられない。置いておく所もないし。気になるなら掃除してよ、それくらいやってよね」

非情に心苦しい。ひとつの呼びかけに対して千の針を含んだ言葉が返ってくる。そのどれもが痛い。菜摘は変わった。絶対に変わった。この隔絶に嫌悪を抱いているのは俺だけなのか。手元で『妊娠 イライラ』と検索をする。  

旦那の態度が気にくわない。母親だろ、頑張れよと言われた。一生許さない。悪阻のせいで気持ちが悪くて吐いたら、ダイエットにいいねと笑う。どういうつもりだ。

書き込みの数々に怯える。自分から口を開いてはいけない。何かを聞かれたら、そうだねと答えるのが無難、ということを学ぶ。

菜摘が洗い物を始める。茶碗やコップや箸が泡にまみれる。後ろ姿が違うかも知れない。体重が増えるたびに落ち込んだ気持ちが全身から放射され、また増えたと小さくつぶやく。毎日見ているからよくわからなくなってしまい、励ますつもりで前と同じだよと声をかけたら、あなたは一体私の何を見ているのと問い詰められたのだ。そんなことがあってから見てみると、なるほど後ろ姿が違う。例えるならば人参だったものが茄子ほどに膨らんでいるだろうか。

「ダイエットなんてしないわ。だって食べ物で我慢したくないんだもの」

そう話していたのに、今では体重に支配されている。体の浮腫がひどいらしい。朝は足首を揉んでいた。医者は体重を増やすなと言う。出産が難しくなるから、決められた限度を守って管理をするように伝える。どう頑張っても無理よ、増えるものは増えるし栄養は取れと言うし、妊婦がこんなにも大変だとは思わなかった。健診の帰りに駅まで歩きながらそんなことを話した。

「洗おうか」

「もう終わるからいい」

手伝おうとするのだが、邪魔なようだ。

「やることがないなら掃除機でもかけてて」

コンセントを差し込み、電源を入れる。空気を巻き込む機械の曇った音がして他は何も聞こえない。

俺はカーペットに埋もれた毛が気になっていた。何本も何十本も落ちているからひどく心地がわるい。俺のものなのか、菜摘のものなのかわからない陰毛が、プリンを食べようとしたスプーンの上に乗っていた。一昨日の事件だ。どこから来たのかもわからない。いつの時点で陰毛がスプーンに乗ったかを思い出せない。気づかなければ食べていただろう。楽しみにしていたプリンでも、そのせいで食べる気持ちが萎えた。菜摘が肩を叩く。

「部屋の隅からやってよ! 真ん中からやらないで」

掃除機のせいで聞こえなかった。何度も呼びかけたそうだ。無視しないで欲しい、と言われたけどそんなつもりはないのである。掃除機の吸い込みがよくない。パワーがない。見ると塵が溜まりすぎてランプが点滅している。

「どうやって塵を捨てるの? 中のやつ」

「まえに教えたでしょ、思い出してよ」

教えてもらった気がするけれど思い出せない。どこかの出っ張りを押し込むと開くのだったか、それともこちらか。もたついていると菜摘がもぉー、ちんたらしてないで早くして! と怒りだす。

「ここよ、ここ。ここですここ。ここをパコって外すのよ」

睨み付けられ震え上がると、すんなり取り出し口が開いた。あぁ、ここだったかと声をあげたら菜摘がお腹をさすりながら寝室に戻ってしまう。こちらには一瞥を与えず、放たれていた寝室の扉を閉めてしまう。

『続いてご紹介するのはこちら、累計販売数四万台突破、塵捨て不要の革新的掃除機、パコパコ君のご紹介です』

世の中は便利になっている。でも俺には必要ないものなのだ。雨が降り続いている。ベランダに出る。手すりに雨蛙がいて、喉を膨らませ鳴いていた。ビー玉みたいな目玉が無造作に俺を見つめている。

「雨はいつやむのだろう」

問いかけても返事はない。やめてしまったタバコが吸いたくなる。漂う雲が降らす雨が肌に微細な爪痕を残す。通販番組の男を思い出す。地中海の街を抜ける風のようにさっぱりした口ぶりに励まされたい気分だ。

一歩踏み出すと、警戒した雨蛙が手すりから飛び降りてしまう。俺は駆け寄り、身を乗り出す。手足を広げたまま落下していき、その体は一瞬でコンクリートにたどり着く。軟弱な物音が聞こえ、雨蛙は動かなくなった。 

風邪をひいてしまった。朝から喉が痛む。異物が奥にあるようで煩わしい。咳が出るからマスクをする。菜摘が起き出してきた。声をかけたら返事がある。家を出てから途中でコンビニに寄って、のど飴を買う。駅でいつもの電車を待つ。

ホームには長い列ができていた。新聞を読み、スマホを触り、本を読む人々。その列に加わる。高志に昨日の報告をしようと思い、手を止めた。あいつにとってはワイドショーの芸能ニュースよりも面白いはずだ。でも愚痴を男友達に送り続ける男というのは、冷静になればわかるが度量が狭いのではないか、と思いあたる。妻の起伏を他人に逐次伝える男のなんとみみっちいことか。メッセージを送るのをやめて、線路に沿って造られた四車線の自動車道を眺めている。

トラックや高速バスが過ぎていく。その間に挟まるようにして乗用車が走り、都市を目指してスピードを上げていく。排ガスの熱気と日の強さに参ってしまい、ネクタイを緩めて首もとに生まれた蒸し暑さを解放する。何よりもまず、首を締め上げるこのような素材がどうして必要なのだろう。ネクタイがなければ仕事の席に着くことすらできないのだ。   

菜摘との関係がよくないばかりか、相応しい格好を強要されているスーツ姿の男たちを見ていると自然と心が死んでいく気がするのである。咳をしたあとに感じるマスクの生ぬるい感触もその気配を押し上げた。のど飴を放り込む。

向こうから電車がやってくる。マンションが立ち並ぶ高台を乗り越えてこちらに近づいてきた。始発駅の次だから座れる日もあるけれど今日はどうだろう。農家が収穫し忘れた果実のように見落とされた席がひとつだけ空いていればいいと思う。

白線の内側までお下がりください、とアナウンス。ドアが開く。先客は大勢いて当然だが席はない。ドア付近の僅かばかりの空間に体をねじ込ませる。電車が動きだし、俺の一日が始まった。窓から見えるオフィスの様子や天井からぶら下がる車内広告を見ながら暇を潰す。ときどき現れる緑地には、犬の散歩をする老人や幼い子供を歩かせる母親の姿があった。

地下の暗闇がやってくる。車内は静まる。乗客の乗り降りが続く。

決まった時間に起床して決まった朝食を取り、決まった日中を過ごし、決まった夕食と風呂を経て、決まった時間に眠りにつく。人の暮らしがそうであるわけだから、そこに含まれる細分化された、いくつもの決まりごとを見逃すわけにはいかない。言うなれば一種の儀式であり、行為であり、効率化を図ったうえで選んだ画一的な筋道を指す。同じ時間に同じ電車に乗ることもしかり、そういう道理なのだ。なにが言いたいのかと言うと、先日の女が俺の前にいるのである。

間違いない。パートナーがうすぼんやりしていた俺を目覚めさせた。正気を保つために咳払いをして、勝手な振る舞いに自制を促す。ところがこちらの思惑を意に介さず、一方的に好意を表し始めた。冷静な頭で考える。妊娠中の妻がいての出勤さなかの電車内での暴発は終焉を意味する。パートナーとの付き合いは厄介だ。ここぞとばかりに難しいことを考える。それもダメなら祖母の笑顔である。純然たる清廉と悠然たる決断をもってパートナーの逸脱を防ごうとする。だが困ったことに車両が揺れてパートナーも揺れる。素知らぬ顔をしていたが、乗客が押し合いをするせいで女の尻の感触を知ってしまう。

つきたての餅のようであり、丸みを帯びたほおずきの芽生えであった。女はこちらを意識する。俺は体を離す。男の思考とは無数の箱である。同時に複数の箱を開くことはできない。ひとつの箱にはひとつの思考が格納されており、一定の場面でそれに相応しい箱をひとつ開くのである。並列化することは土台無理な話し、思考の並列は男の脳幹を蝕む病理としてのみ存在する。その要件で言うなれば、俺が開いた箱は牙を剥き出しにする野獣であった。滑空から爪を振るう鷹の俊敏さ、獲物に一時の猶予も与えない蝦夷熊の獰猛さが渦巻く身命を秘め、指先はかくも柔軟に女を撫でまわす。菜摘に抑圧された欲望が火を放ち、理性の決壊が雄叫びをあげる。完全なる虜になり、心拍は日々の範疇を越えた。マスクのせいで顔がわからない。やれる。 

繊細な触診は大胆に力が入る。尻に留まらず、太ももや腰を堪能し、右手が窪みに差し掛かろうとしたその時、ドアが開き俺は片足をホームに忍ばせる。

女の柔らかな肌が片腕を掴む。どうするのかと振り向けば、すっかり逆上せた目をしていた。紅潮した頬で、女は電車を降りる。思わずのど飴を噛み砕いてしまう。逃げ出そうとして躓き、キャリーバッグを引きずる外国人とぶつかる。水気を含んだ汗ばむ腹に肘がめり込んでしまい、男は顔を歪めて呻いた。ソーリーと突発的に謝ったが、白い鼻が徐々に赤みを帯びて、一瞬で全体に広がった。声を張り上げて怒鳴る。とにかく逃げるしかない。

「痴漢よ! 捕まえて」

女が叫び、それを聞き付けた駅員が行く手を阻む。突き飛ばして振りきると、プロレスをしていそうな大男が振り返り、頬を強く殴られる。耳を打ち付け、口内に力が加わり切れた。顔を見せろ、この野郎! マスクが宙を舞う。馬乗りになって首を締められ、息が詰まり顔中の血管がはち切れんばかりに狂う。大男の重さのせいで内臓が身体中の穴から押し出されそうになる。血管が浮き上がる腕はウツボのように太く、巻き付いて引き剥がせない。駅員が駆け寄ってきて見下ろす。天井の明かりが眩しくて黒い影ができる。

「この人です、ずっと触られました」

「おまえやったのか」

大男が問いただす。俺は何も言わなかった。他の乗客がこちらを気にして騒がしい。背中にコンクリートの冷たい感触がある一方で、体温は上がり心臓が動きを速め、呼吸は小刻みに浅い。身動きが取れず、人目に晒される。まるで密林で捕獲されたサーカスの猿だ。しくじった。

場所を移しますから、そう言われて駅務室に連れていかれる。大男が一緒にきて逃げられると思うなよ、と拳を振り上げる。警察が来るだろうか。会社に連絡、そんなことしなくてもいいのか、するならなんて言えばいいだろう。菜摘にはなんて言おう。

重そうな扉が開く。中には駅員がもう一人いて、机に向かい何かを書いていた。プラスチックが焼かれた妙な匂いがする。ノートパソコンと事務書類が置かれた机に置かれているあかべこが首を振る。換気扇が閉じたままで、ホワイトボードには駅名を書いた磁石が貼られている。連絡用の専用電話が壁に取り付けられていた。

「こちらにどうぞ」

駅員は奥からパイプ椅子を出してきて、俺と女に座るように言う。大男に礼を言って、こちらで引き取ると伝えた。つばのついた青い帽子を外す。ハンカチで汗を拭き取り、呆れたように息を吐いた。

「よくあるんですよ、痴漢。いつも警戒はしてるんですがね」

誰に話しかけるわけでもなく、一人言のように語り始めた。事務仕事をしている駅員は俺と女をちらっと見て、再びペンを走らせて書き物を続ける。時計の短針がやけに大きく聞こえる。

「やったんですか?」

弁護士の知り合いなんていない。そもそも触ったのだ。冤罪でもないから頼るところがない。女は俺が認めるのを待っているように見える。

「どうなんです、こちらの女性がそうだと言ってますよ」

駅員の半袖から出た腕は日に焼けて逞しい。無精髭を生やした鋭い一重瞼で俺の上から下まで、身なりや靴先を調べている。頬は痩せていて、骨の形がわかるほどくっきりした顎が刃物のように俺の視界を横切る。女を見ると目を伏せて足を突きだし、ボールでも蹴るような動きをする。見るなということだろう。

「やってません、何かの間違いです」

卑しく聞こえないように、努めて清潔にする。証拠がない。女は触ったというが、それを確かめることはできない。

「嘘をつかないで。触ったじゃない!」

椅子から立ち上がり目を潤ませて肩を震わせる。駅員が手をかざしてなだめる。

「私には判断ができません。他に行動を見ていた乗客はいますか」

女は唇を噛み締めてうつむく。残念だが痴漢を証明するなんてできるわけがない。混雑した車内でそれが痴漢だとどうやって判断するのだ。状況はこちらが有利だ。耳たぶをつまみながらゆっくりした口調で言う。

「混んでいましたから、体が触れたときがあったかも知れません。あそこまで人が多いなら勘違いもありますよ」

偶然そうなった。だから早くこの場を収めたい。駅員だって判断ができないから警察に連絡したりはしないだろう。名刺を取り出す。携帯番号を書き入れて渡す。突き返すかと思ったら、女は黙って受け取った。

「なんで嘘つくのよ。触ったの知ってるんだから。結婚してるんでしょ、ひどい」

欠点を責め立てるような視線から指輪を隠す。女はパイプ椅子に腰かけたまま両膝を合わせて、悔しそうにスカートに爪を立てる。駅員は腕時計を眺めた。

「どうします? このままじゃ進みませんね」

「名刺に連絡をください、何かあれば対応します」

出社時間はとっくに過ぎていた。会社に連絡をさせて欲しいと断ってから電話をかける。呼び出しが三回続いて総務に繋がる。駅で乗客と揉めてしまったと伝えた。心配する電話に手短に説明して女と駅員を確かめる。

「すみません、これから仕事なので長く時間がとれません。問題がなければこのまま帰ってもいいでしょうか」

女は諦めた様子でぽつり、わかりました、と返事をした。咳払いをしてネクタイを締め直す。駅員は終わりの見えない仕事から解放されたと言わんばかりにさっぱりとしている。

「痴漢をされたと確実に証明できなければ私たちにはやれることがありません、申し訳ありません」

そう言って頭を下げた。唾液を飲む。舌を過ぎたあたりで腫れにぶつかり、痛みと安堵が押し寄せてくる。指先に残る女の感触を留めておきたくて体を隅々まで見ておく。さっき触ったときにできたのか、ストッキングには細長い傷が伸びていた。

「それでは失礼します」

朝のラッシュ時間が過ぎていたから車内は人が少ない。席は空いており、どこだろうと座れるようになっていた。入り口から一番近い所に腰を落ち着け、胸を撫で下ろす。何もなかったことに喜びが沸き上がる。もしかしたら警察を呼ばれるのではないかと心配していたのだ。女が簡単に引っ込んでくれてよかった。何時間も拘束されるのではないかと感じていたから拍子抜けした。

のど飴を一粒放り込む。甘い味が広がる。咳をして苦しそうにすると、向かいの席の老婆がこちらを見る。白髪の身なりのいい老人だ。眼鏡は細い金色のフレームを選び、丁寧に口紅を塗っている。肌ざわりの良さそうな薄紫のワンピースには鼈甲のブローチ。膝に置いたバッグは、がま口の財布と同じ形の口金が取り付けられた四角いもので、爬虫類の革で作られている。ぼんやり眺めていると老婆は口を緩ませて笑った。

魅力的だが、もし今が混雑した時間だとしても老婆を触ったりはしない。シミが目立つ足のせいかと思う。それとも皺で弛む口元が雨水を溜め込む池のように濁っているからだろうか。目をそらして足を組む。なぜこんなことを考えるのだ。いつもと変わらぬことをしているのに落ち着かない。この地下鉄も、暗い外の景色も、窓に貼られた広告も何も変わっていない。でも何かが違う。女の表情を思い出す。目を細めた憂いに沈んだ表情を。  

俺はどこかおかしい。なぜ痴漢なんてしてしまったのだろう。たまたまうまくいっただけだ。捕まれば仕事も家庭も失うことになる。俺の性癖は狂っていない。ただ、無性に女を抱きたい。菜摘と交わりたい。乳房に顔を埋め込み、黒々とした毛の間に入り込みたい。口から飛び出す湿り気のある綿のような声を聞きたい。唇を確かめ合いたい。妊娠して、菜摘は女の部分を制限した。

俺の欲求は大きくなる。自分ではそれを抑止できなくなっている。右手を左で押さえつけ、二度としてはいけないと誓う。

その日の夜、自宅に帰ると菜摘はすでに夕食を済ませていた。ソファーにもたれてテレビを見ていた。

「お帰りなさい」

後ろめたい気持ちが膨らんでいく。日中に何が起きたのかを菜摘は知らない。腹をさすりながら、パパが帰って来たよ、と話しかける。

「来週の木曜日、病院の健診があるのよ。一緒に行ける?」

スーツを脱いでハンガーにかけながら、調整するよと答える。

「時間は何時ごろ?」

「無理を言って午前中にしてもらったわ。その方が一日の予定を組みやすいでしょ。いつもみてくれる先生がお休みだから、ちょっと心配だけどね」

溜め息を混じらせながら、ご飯を食べるでしょ、とこちらを見る。俺はどう見えているのだろう。

「どうしたの、何かあった?」

不意にそう尋ねられ、曖昧な返事をした。悪阻が一段落してから菜摘はよく食べるようになった。しばらく前まではビスケット一枚を食べるのがやっとだったのに近頃の食欲は凄まじい。

「やっぱりなんか食べなきゃいけない気がするのよ。この子の栄養になると思うから」

あまり食べなかったフライドポテトが好きになった。切り干し大根を茶碗に大盛にして食べるようになった。冷蔵庫にはブロッコリーがいくつも詰め込まれている。電子レンジが今晩のメニューを温めている間に、台所に立つ菜摘を抱き寄せる。あっ、と声がして電子レンジがチンと鳴った。

肩を掴んで唇を重ねる。乳房を掬い上げて力を入れると、指をすり抜けていくような感触があった。菜摘が俺に体を預けるように寄り掛かる。腕を掴み、固くなったパートナーを無理矢理に触らせる。ん、と菜摘が小さく鳴いた。

「だめ」

構わずに押し倒す。ソファーに沈んだ体に膝を割り込ませる。菜摘は拒絶する。やめて、と何度も繰り返す。かぶり付くように舌を這わせると、掌を押しあてて俺の体を引き離そうとする。その力は深い心の抵抗に思えた。すぐに済むと言うのに大人しくしない。力任せで下着を脱がせようとしたら邪魔をする。 

髪を掴んで平手を打つと静かになった。鼻をすすり泣き出す。両手で顔を覆って視界を閉じた。菜摘の下半身に触れる。硬い部分と柔らかい部分が混じり合う箇所を舐める。パートナーをねじ込もうとするとお腹が痛いと言う。

「お願いよ。怖がってる」

膨らんだ腹を見る。へそを中心にして天井の明かりが緩やかに輪郭を描く。俺が残した液体がナメクジの通り道のように固まりつつある。菜摘は怯えつつも俺の手を取り、腹にあてる。

「二人の赤ちゃんよ。無事に産まれるように私たちが守らないといけないの。だからできない」

パートナーは尖端から力を無くし、へたってしまう。言い表せぬ後悔がして、無言のまま風呂場に向かった。振り返ると菜摘の目の回りがげっそりと痩せて黒ずんでいた。

肉じゃがを食べ、ほうれん草のおひたしに箸を伸ばす。豆腐の味噌汁を飲んで喉の痛みが消えていることに気がつく。菜摘は隣の部屋で通販カタログを見ている。抱っこひもや涎掛けを買わないといけないらしい。他にも哺乳瓶や肌着も揃えておきたいのだと言う。

「どれがいいと思う?」

カタログを持ってきて広げる。どれが必要なのかわからない。

「任せるよ」と言うと、菜摘はカタログを放り投げて「もう知らない」と叫んで寝室に引っ込んだ。食欲が無くなって、残りは捨てた。

翌日、女から連絡があった。取引先にメールの返信をしていたときにかかってきた。文面に間違いがないかを読み返している最中だったから、電話を受けるか迷った。しかし鳴りやむ気配がないため、仕方なく非常階段に移動して応答する。

「もしもし」

聞き覚えがないので誰かと尋ねると痴漢をされた者だと明かした。あぁ、と言うと女はこの前のことを覚えているかと聞く。

「もちろん覚えています。今さら警察は動いてくれませんよ、どういうご用件でしょうか」

「どうして触ったのか、それを聞きたくて連絡したの。ねぇ、どうしてか教えてくれる?」

抑揚のない平坦な口調が耳に入る。先日の興奮している様子はない。どうしてかと聞かれても素直に答えられなかった。突発的に体が欲しくなったとしか言えないのだ。続く言葉が出てこない。自分の手を見る。皺が葉脈のように全体を巡り、ぷっくりした指の腹が光を反射している。女を触った指だ。鼻先に近づけて嗅ぐ。

「おかしなことを言いますね。してないから、どうしてと聞かれても答えられませんよ」

思わず笑ってしまう。女は馬鹿にされた気がしたのか、笑ったことには何も言わずに押し黙ったままだ。返事がないからそのまま待っている。スピーカーから微かな糸を張りっぱなしにしたような音が鳴り続いていた。しばらくして女が口を開く。

「もう一度してみない?」

今度はこちらが黙ってしまう。狼狽えて返事ができない。音量をあげる。聞き間違いだろうか。

「どう? 悪い話じゃないでしょう」

どういうことだ。白状させるための誘導としか思えない。女の望みがわからない。痴漢だと騒いでいたじゃないか。おかげで殴られた箇所が痛む。

「今日は仕事を休んで家にいるの。起きてからずっと誰かにされたくて、化粧も着替えも面倒でやめちゃった。ねぇ」

「なぜ電話をしたんですか」

無機質で感情を抑えた問い。これは駆け引きかも知れない。呼び出して金の要求か? 簡単に誘いに乗るわけがない。突然、女の息が洩れる。聞こえるかどうかの熱が耳元に染み込む。

「わかる? 裸なのよ」

「冗談はやめろ、切るぞ」

「切れるなら、切りなさいよ」

電話を握りしめたまま動けない。女は自分の状況を説明する。見せびらかすように事細かにそれは行われた。パートナーが固くなる。女は俺を弄ぶ。

「準備はできた? すごく濡れてるわ」

「何が目的だ、仕事が残ってるから切らせてもらう」

怒りを含んだ強い口調で終わらせようとする。いつのまにか傾いた夕暮れが、ビルの外壁を淡い色に塗り替えていた。液晶画面を顔から離す。通話時間は十分を越えている。女は子供に用事を頼むように易々と伝言を残して電話を切る。

「明日も同じ車両で待ってる」

自席に戻ったものの仕事が手につかない。通話履歴を眺めてしまう。パソコンの右下に表示される時刻が切り替わるのをぼんやり見ていたかと思えば、これから営業に向かう会社の場所を調べる地図アプリの動作が遅くて汚い言葉を吐く。

様子を見ていた主任がタバコをやめてから落ち着かないな、と茶化す。

「一度ハマるとやめられないんだ。俺も禁煙してたけど、二ヶ月しか続かなかったぞ。体に悪いから、一箱くらい買ってこいよ」

曖昧な返事をする。高志からメッセージが届く。

『彼女ができました。合コンで知り合った女子大生! 五歳くらい年下でめちゃくちゃ可愛い。若いから体力あるわ。何回もヤっちゃった』

家に帰ると荷物が届いていた。食卓の上に小包が置かれている。俺の実家からだ。菜摘が開けてみてよ、というので中を見る。子供服が入っていた。車や飛行機のプリントがされたものが二着と手紙。

「まだ性別がわからないのに、なんで?」

その声には怒りが篭る。手紙を読もうとしたら菜摘が奪い取ってしまう。静止して動かない。

「こんなのいらない」

手紙を突き返すように俺に読め、と渡す。

『赤ちゃんは順調に育っていますか。あまり連絡をくれないので心配しています。うまく寝れなかったり、食べられなかったりする時期だと思いますが、お腹を冷やさないで健康に過ごしてください。菜摘さんとまたこちらの方に遊びに来てくださいね。待ってます』

「これ、捨てたい」

子供服を見下ろして言う。言葉の意味がわからなかった。菜摘の神経を疑うまでに若干の時間がかかった。

「何いってんの? 捨てられるわけないだろ」

「女の子かもしれないし。それにすごくダサい。こんなの着せたくないわ」

菜摘を睨む。苛立ちが抑えられない。いくらなんでも言い過ぎている。

「どうするのよ。処分してくれるの?」

食卓に拳を降り下ろす。音が響いて菜摘は驚いているように見えた。いい加減にしろと怒鳴ると昨日のカタログの話を持ち出してきた。

「昨日は興味ないって言ってたのに、母親が送ったものなら大事にするのね。マザコン」

菜摘を殴りそうになる。体が震えているのがわかる。勝ち誇ったようにこちらを眺めている。なぜこんな我慢をしなくちゃいけないのだ。なぜ、こんな生活をしなくちゃいけないのだ。菜摘の腹を蹴りあげたくなる。子供がいる腹を思いっきり蹴りあげたい。足を伸ばせば届く距離に菜摘はいる。子供服を持ち上げ、ゴミ箱に投げ入れる。

「これで満足か」

舌打ちをして家を出る。鍵の閉まる音がした。

行儀よく列に並んでホームに到着する車両を待つ。朝のせわしない雑踏も高い位置から照らす太陽も新築マンションの分譲広告も同じだ。何かの願掛けのように自分の立つ場所まで同じ。ネクタイやハンカチも同じにした。思い出せる限りの記憶を遡り再現した。違うのは胸の奥が嵐のように荒れ狂っていることだ。

さざめくホームや大型トラックの唸りが耳から入って呼吸を重くする。昨晩は近所のファミレスで時間をつぶしてから帰った。インターホンから呼ぶと無言でドアが開き、中に入った時には菜摘の背中は消えていた。俺はリビングのソファーで、菜摘は寝室のベッドで眠る。朝になっても口をきかなかった。 

家を出る直前にゴミ箱の中を覗く。全身の骨を根こそぎ折られたように縮こまる子供服があった。手紙はない。どこに置いたのか覚えていなかった。菜摘が仕舞ったのかもしれない。電車を待つ間、何度もメッセージが届いていないかを確認する。菜摘から昨日のことを謝る文章が届いていないか、新着件数を気にする。画面はさっきから変わらないままだった。

高志にメッセージを返す。

『彼女が大学生って大丈夫か? 若者の将来を台無しにするなよ。避妊は大事!』

自分に対する忠告のようで、文面を見ていると滑稽な感じがして笑ってしまった。他に書きたいこともないので、そのまま送信する。川縁で投げやりに石を放ったような虚しさがあった。届かなくても読まれなくてもいい。ただ、目的もなく同じ時代を過ごした友人の背中を叩いて、こちらの存在にもちょっとだけ目を向けてほしいという極めて消極的な意思だった。

定刻になり、電車が近づいてくる。深海に潜む肉食魚の発光体みたいな青い車体が音をたてずに止まる。

「足元にご注意願います」

駅のアナウンスをそっくりそのままつぶやく。扉が開き、大勢の乗客と共にエアコンで冷えた車内の渦に飲まれていく。引きずっていた気味の悪い重たいものを切り離すように、左右の扉がゆっくりと閉じた。

女は乗ってくるだろうか。来るわけがない。期待している自分を馬鹿だと思う。いたずらで連絡をしてきたのだ。触ったことを認めないから、腹いせにからかっているだけだ。景色を眺めて別のことを考える。例えば菜摘。 

子供が育っているのに幸せを感じない。俺はあいつから求められるばかりで、何ももらっていない。我慢ばかりしている。時間を見る。菜摘が家を出る頃だ。無理に走れないから、余裕をもって早めに出勤しているはずだ。

首のあたりで切り揃えた艶のある髪に、細い眉。そこから下には茶色い瞳がある。猫が笑ったような唇を支える張りのある微笑み。親指と人差し指でくい、と持ち上げたくなる弧を描く骨格。朝の菜摘を思い出してみるのだが、はっきりしない。頭の中に生まれたのは俺が見た三十分前の菜摘という気がするし、何年も昔の付き合う前の菜摘という気もする。どちらも菜摘なのに、どちらの菜摘なのか判断ができない。

地下の闇がやって来る。駅に到着して扉が開く。何人かが降りて、新しい乗客が乗ってくる。順番待ちの列に女がいた。女が俺を見る。不思議とその姿は菜摘に見えた。促されるように入り口の近くに移動する。女は背中を向けて前に立つ。

「来たのか」

小声で尋ねると、ぴたりと体を合わせて俺の手を取る。柔らかい。そのまま強く握ってしまう。指を絡ませたかと思えば、次の瞬間にはパートナーを包んでいた。二本の指先が小鳥の頭を撫でるように、先の方を何度も往復する。インコの気持ち。女は砂に埋もれた籠った声で聞く。

「どこまでやる?」

身動きがとれないほど混んでいる中で、十分に熟れた果実のような尻を触る。衣服の上からでもわかる滑らかな線をたどる。腰に手をあてて強く押し出すと、窓ガラスに潰されて胸が大きく広がった。暗闇に浮かぶ女の表情が吐息で曇る。本を読んだり、スマホを見たり、目を閉じていたりして誰もこちらを気にしていない。脈が早くなりパートナーが濡れる。車両が速度をあげた。髪をかき揚げて女の耳を噛む。女はわざとらしい声をあげる。それがあまりに響いて、俺は手を止める。

静かな車内に生気を帯びた空気が漂ってしまう。汗と埃に、かき氷シロップみたいに甘い香水を振りかけた独特の匂い。まわりを見渡す。男も女も狭い場所で体を擦り合わせて目的地を目指している。そこには俺と女のような交わりはない。よくもまぁ理性が働くものだと感心する。俺がおかしいのだろうか? それとも何かの拍子に真面目な顔や朗らかな目元に欲望が宿るのだろうか。

ここにいる全員が男と女になれば面白いだろうに。熱気と生魚みたいな匂いを体から発して、誰にも知られずに朝の時間をパートナーと過ごすのだ。車内の出来事は外には漏らさず、駅員も口外しない。地下の秘密だ。

停車駅が告げられた。降りなくてはいけない。女から離れると、こちらを振り向き、不満そうに口を尖らせた。

「降りちゃうの?」

「そう、仕事がある」

改めて女を見る。綺麗だ。細長い蛍光灯に照らされて、肩から腰までがぼんやりした光で縁取られている。向かい合ってみてわかったが、額には傷がある。まわりの色と同化して、目立たないほど埋没しているけれど、古い切り裂かれた筋が一本残っていた。

電車が止まる。扉が開いて俺は流れに従い外に出る。去り際に女はミカ、と言った。それが名前だとわかったときには、乗り込む乗客の影に隠れて見えなくなっていた。

巨大な生き物に飲み込まれるように、電車は暗い線路を進んでいった。車両に取り付けられた赤いランプが誰かの心臓に見えて、それが小さくなっていく。完全に消えてしまうまでそう時間はかからなかった。

気がついたらホームの際まで歩み寄っていて、駅員に止められる。スピーカーから下がってください、と声がして、それにも従わないから肩を揺さぶられて、やっと視点が戻ってきた。駅員は眼鏡をかけていて、透明なレンズからは苦々しいタバコの煙が残っているのが見てとれた。

「あなた、危ないですよ」

細長い体からは想像ができないほど低くて太い声が発せられた。黒い紫色をした具合の悪そうな唇は、薄皮が剥けていて今にも萎れてしまいそうだった。

「すみません」

と、頭を下げると駅員は何も言わずに立ち去った。会社に行こうと思ったのだけど足が前に進まない。ベンチに腰かけて、駅名が書かれた大きな看板と看板を取り囲む赤茶色の四角いタイルを眺めていた。敷き詰められたタイルの間から水が漏れている。溝を伝って徐々にタイルの間を流れていく。聞こえるはずがないのに、その水が落ちる音が響いている。ぽたぽたぴた。熱でもあるのかと思い、手をあてると少しだけ熱い。風邪がぶり返したのだろうか。ベンチの固い素材が妙に心地よく感じられた。

しばらく動くことをやめ、到着する電車と乗り降りする乗客を見ていた。高志。たった今、ホームに着いた電車から高志が降りてきた。左の肩を下げる変わった歩き方を懐かしく思う。そうだ、あれは高志だ。肩を下げ、リズムに乗るように軽く揺れながら歩いていた。声をかけようとしたのだが、なぜここに高志がいるのだ。長崎の離島に住んでいるのに、こんな地下の駅にいるわけがない。人違いだろうと思ってそのまま見送る。

始業時間まであと十分。先日の遅刻では特別に上司から注意を受けたわけではない。でも何度も続くと、さすがに理由を聞かれるだろう。悩んだ末に総務に電話をする。

「申し訳ありません、体調がよくないのでお休みを頂きます」

「わかりました。お大事に」

数秒間の会話。電話に出たのは先週入ったばかりの契約社員の女性だった。ずいぶんあっさりした対応だったので心配になるが、俺が休むことくらいは伝えてくれるだろう。今日はどこにも約束がないから一日くらいなら休んでも問題はない。一応、鞄からスケジュール帳を取り出して九月のページを開く。水曜の今日、仕事の予定はなかった。あるとすれば、経費の申請を経理に出して、工場に追加発注の連絡をするくらいだ。定例の会議が午後にあるけれど座っているだけでやることがない。発言するのはいつも決まった人間だから、そいつらだけで集まればいいのだ。全員が揃う必要はない。そう考えていたら無理をして出社をすることもないように思えた。

九時になった。社内では出社した順にパソコンが立ち上がり、システム管理されたタイムカードが時間を記録する。メールの受信ボックスを開いて、仕事に関係するメールと、それ意外のメールに目を通す。朝一の会議に向けてプリンターが紙を吸い込むガチャンという音がして、マウスとキーボードが乾いた響きを奏でる。事務機器の演奏会だ。電話が鳴る。外線と内線の呼び出し音は違っていて、外線の方がけたたましい。急き立てる呼び出し音は自由時間の終了を告げる刑務所の放送だ。

そうして朝の演奏が静まった頃には営業が出払い、穏やかな朝が帰ってくる。もし会社にいたならば、今ごろはのんびり、経理に提出する書類に押印しようとして、印鑑の向きを確認していたことだろう。

腹が減った。昨晩のことが頭から離れず、朝食を食べる気力が湧かなかったのだ。せっかく仕事を休んだのだから、栄養のあるものを食べて自宅に帰り、ゆっくり眠りたいと思った。食事と睡眠を疎かにすると体調が優れないことがよくわかった。どうしようかと考えて、思い付いた店がある。改札を出たところにあるそば屋だ。一度行ってみたいと思っていた。青い暖簾をくぐり抜け、石畳の店内を見渡す。カウンターだけの小さな店は鰹を通したときの湯気が香った。

「いらっしゃいませ」

丸刈りで作務衣を着た店主が注文を受け、手際よく大鍋にそばを泳がせる。客は二人いた。タクシー運転手と外国人の旅行者だ。運転手はずるずるとそばをすすり、うまそうに食べている。品書きを見てから天ぷらそばを頼んだ。はいよ、と威勢のいい声がして、海老の尻尾が沈んでいく。油のはねる音が聞こえた。

店主は手拭いで汗を拭きながら、油に浮かぶ気泡の様子を窺っていた。それを見ながら大根おろしをつゆに溶かす場面を想像した。まだ熱い天ぷらを潜らせてさくり、と歯がぶつかる。火傷するような南瓜のほぐれる果肉。 

旅行者がざるそばを食べ始めた。箸を器用に使い、首を上下に反復させて吸い込んでいく。やがて俺の前にもそばと天ぷら、器の中で輝くつゆが置かれる。箸を割り、大根おろしを注ぎ入れ、細い繊維につゆが染みたあたりでさく、と噛みきった。湖面を吹いた秋風のようにそばが喉を流れた。

立ち上る湯気が店主の高い鼻を隠し、熱を避けて顔を背ける動作を面白がって見ているうちに、鼻は真っ赤に腫れ上がり、あのような痛みが何年も店主を苦しめているのかと思うと、そばの味が一層深く感じられた。運転手が店を出て行き、学生らしき若い男が二人で訪れる。どちらも鴨南蛮を頼み、出された水をちびちび飲んだ。

俺が食べ終えて、一息ついているうちに旅行者が支払いを済ませて出て行く。若い男たちは出てきた鴨南蛮に喜び、鴨肉を摘まんで互いに食べさせ合っていた。不思議な光景に見いっていると、手前の男の薬指に光るものがあった。宝石が無数に散りばめられたそれは、赤や青や黄色に変化して、見るたびに色が違った。ふと、自分の手を見る。指輪がない。背筋が固くなった。いつのまにか指を抜けたのだろうか。席を立ち、支払いをして家に帰った。

玄関の鍵を開ける。電気が消えて人の気配がないリビングは奇妙に息苦しかった。菜摘は仕事に行ってしまい、身支度で慌ただしく過ごしたであろう時間がありありと残されていた。エアコンの電源を入れる。脱ぎ捨てられた寝間着であるワンピースを拾って椅子の背にかけた。ネクタイを外し、ワイシャツのボタンを順番に外す。半袖と短パンに着替え、洗面所で顔を洗う。汗が引いてきた。

薬箱から風邪薬を取り出して飲む。錠剤が引っかかり、水の刺激を受けて痛みを感じた。また喉を悪くしてしまったらしい。水が入ったグラスをテーブルに置いたら、カーテン越しの日があたり、昼間なのに夕暮れのような色に染まった。

指輪をなくしたことを思い出し、風呂場やソファーのあたりを探す。朝、着替えたさいに落としたのかと思い、部屋中を探してみたが見つからなかった。寝室に移りベッドに横になる。

菜摘の香りがした。枕には髪の毛が付いていて、歪んだ黒いそれは浮き沈みのある俺と菜摘のように思えた。枕を抱きしめる。形が変わるほど力をいれると、隠れていた菜摘が綿の間から顔を覗かせた。

「風邪がよくないんだ。今日は家で休むよ」

菜摘は頷いてから笑う。けらけらと声をあげるので、面白いことは言っていないのに俺まで幸せな気持ちになった。菜摘は裸だ。何も身に付けていない。体は美しかった。

眩しそうにするので寝室のブラインドを下げてやる。部屋が暗くなり、隙間から入る光が陰毛を照らした。ふざけて光を追うように視線を動かすと、恥ずかしそうに掛け布団にくるまる。俺も入れてくれ、と頼むと布団を背中で広げてお化けだぞぅ、とからかう。

楽しくなってきた。着ているものを脱いで俺も裸になった。布団の中で抱き合ったら菜摘のほうが冷たくて、やっぱり風邪をひいたのだと思った。病気がうつるのが申し訳なかったが、滅多にない機会だから、吸い寄せられるように唇を重ねた。三秒くらい経ってから乳房に触れたら親指の付け根に液体が落ちた。目を凝らして見ると乳白色をしていて、じんわり甘い。飲むかと聞かれたから飲むと答える。まるで赤ん坊のようだ。

菜摘が胸を寄せて近づけてくれたので、すんなりと口をつけることができた。柔らかいのかと思ったのだが、そんなこともなく、弾力性のある芯のようなものが通っていた。吸い付きながら見上げると目があった。ぬるい液体はどんどん溢れてきて止まらない。たくさん飲み干せば、傷めた喉の消毒になるかと思う。

頭を撫でられたら菜摘の脇が見える。生えはじめた毛が蟻みたいに脇の下に散らばっていて、秘密を打ち明けられた子供の気持ちになった。手首を押さえて露にすると、なるほど、みたらし団子のタレの匂いがした。こちらの味見もしてもいいかと聞いたら、首を縦に振らない。菜摘の口を手で覆い隠して、構わずにかぶり付く。舌を這わせたら配水管から抜けなくなった猫の声を出した。芝生に寝転んだ休日の午後、耳の裏に感じたざらざらしたものが舌先にあった。

気がついたら菜摘の陰毛を掻き分けて進んでいく指があり、小豆ほどの大きさをはじいたら、身をよじり、足を閉じてしまった。腕が抜けないので奥歯を爪で引っ掻いてやる。だらしなく口を開けていたから、涎が垂れてベッドに水溜まりができた。それを塗りたくると菜摘が喜んで飛び跳ねるので、俺も一緒になって飛ぶ。ベッドの中に埋め込まれたバネがギシギシと音をたてる。

乳房が揺れて健康そうに動き回る。まるでやんちゃな子犬のように、海岸に打ち寄せる波風のように、俺がこれまでに見てきた様々な物の動きを再現する。どうしても次の動きが読めない。左右の房は別々の動きをしていて、仲が悪い双子の姉妹のようだった。尻を触ろうとして手を伸ばしたら逃げられてしまう。後ろから追いかけていたら同じ場所を何度も回転してしまって、目が回りそうになった。蜜を探し回る蜂のようにあちこちを移動して、やっと捕まえる。

ここにきて菜摘はきゃっ、とびっくりした声をあげる。初めて男に触れられた少女のようだった。手をつないでベッドに戻る。指で開くと透明な汁が溢れた。神経を過敏にさせる厚みを含んだ酒のようなものだ。俺がそれを飲み干すまでの間、菜摘は体を震わせていた。

仰向けに寝転がると菜摘が俺のへそのあたりに顔を密着させた。腹の上で文字を描いていたが、何を書いたのかわからなかった。そのときが来るのを待っていた。でも菜摘は始める様子がない。簡単なことなのに、なぜか進もうとしない。手元を見つめたまま、時間が止まったかのように固まっていた。

パートナーがいなかった。そそり立つ鉄壁の存在がない。俺は飛び起きて確認する。だが、触ろうとするのだけど、そのどれもが虚しく宙を切る。枝が途中で折れたような痛々しいものではなく、最初からなかったように見てとれる。さらにおかしなことは、燃えたぎる太陽のような熱い血の巡りが感じられたことだ。そこにはないのに、俺の感覚として、今すぐにでも菜摘の中に膨らんだものを突き立てる用意がある。訳がわからなくなり、顔を見合わせて、何度となく唇を重ねた。やっぱり駄目だった。脚を開く菜摘がいて、すでに準備はできている。だが雨に打たれた合歓木みたいに十分な水を湛えた股ぐらを前にして不能である。

目を閉じて、静かに呼吸をしながら俺を導いてくれるのに、体温に癒されながら押し広げていくあの幸福がない。何度やっても駄目なのだ。突起のない赤レンガをぐりぐりと押しあてているだけの歯がゆさがある。そこにあるものとして腰を動かすと、陰毛同士がまとまった大きさに拡張して、野鳥がせっせとこしらえた葉や木々を組み合わせた巣のような塊が出来上がった。すっかり自信を失い放心していると菜摘が膝をつき、口に含んだ。

ないものをあるものとして扱う。俺自身はそこに何も感じない。菜摘のぬくもりや絡み付く舌の柔らかな感触がない。あるのは外を走る自動車の音と、囁くように揺れる髪のきらめきだった。ふいに涙がこぼれた。すべてを失った気がした。数本の草が残された渇いた大地に置き去りにされた気持ちになる。夕暮れの影が徐々に消えていく経過を一人で見守らなくてはいけない、そんな孤独な考えに襲われた。菜摘の行為はその孤独から俺を救う祈りに見えた。

「すまない、ごめん」

何を謝ることがあったのかはわからない。泣きながら呟いたのはその言葉だ。手を器用に使って搾り取ろうとする仕草をいとおしく思う。菜摘の濡れた口元をきれいに舐めとる。

二人で眠った。眠りに落ちる前、ぼやけた視線で天井を見ながら、喉の不快な痛みが消えていることに気がついた。抱き締めたらいつもの菜摘のさらさらした肌が返ってきて安心したのだ。

子供の声で目が覚める。菜摘はいなかった。隣にいない、家中を探しても見つからない。あれは夢だったのだ。パートナーはしっかりと下半身の中心に居座っていた。尿意を催してトイレに行くと勢いよくじょぼじょぼと水面を泡立たせる。裸のままだったことを忘れていた。ベッドの脇に脱ぎ捨てられた衣服を身につけてアイスコーヒーを飲んだ。スマホが小さく点滅している。菜摘からメッセージが届いていた。

『なんか私たち最近、よくないじゃない。体調もよくないし、休職をして実家に帰ろうかなって思う』

それだけだった。いつ? と返事をして画面を閉じた。胸をえぐられたような強い落胆があった。夢のせいもあって、余計に文章が絶望を突きつける。幸せだと感じたのは菜摘と寝ることができたからだ。夢だったとはいえ、あれは紛れもない事実だと思う。俺が望んだ姿で望んだ菜摘とのひとときを過ごしたのだ。現実はたまらなく人生の明暗をはっきりと示す。メッセージを読み返す。注意深く、一字一句を理解するにつれて、結婚生活に挫けてしまいそうになる。

菜摘が離れていく。何本もの細い足をもつ虫が背中を這いまわっている嫌な感じがした。もう終わりかも知れない、と考えてしまうのだ。誰かにこの不安を聞いてほしい。しかしそんな人間はいない。思い付くのは高志くらいだ。電話をしたところで出るだろうか。試しにかけてみるが、でなかった。思い付くのはあの女だ。こちらから連絡をして何を言うつもりだ。スピーカーから流れる湿った声色に誘われたいのだろうか。満員電車に乗り込むのを楽しみにしながら、菜摘との危うい暮らしを続けていく。女との関係が壊れるまで。 

果してそれは幸せなのだろうか。疑問を抱かずにはいられなかった。菜摘から返事が届く。

『なるべく早くかな。離れてじっくり考えたいのよ、あなたもそうでしょ?』

風邪のせいで頭が痛む。同時に込み上げてきたのは怒りだ。勝手に話を進めないでほしい。なぜそうなるのかを教えてほしい。菜摘の持ち物を散らかす。アクセサリーや洋服を床に投げつける。化粧品も育児雑誌も、なにもかもが必要のないものに思えた。

菜摘の下着が目に入った。それを口に入れる。水分が吸いとられていく。自分でも何をしているのかわからなかったが、とにかく菜摘を困らせてやりたかった。妊娠してから変わってしまったところ、全てが嫌で、性格がキツくなったり、体形が変わったり、俺の自由がなくなったことも何もかもが頭に来た。

下着をいくつも頬張って咀嚼する。甘いものがあれば酸っぱいものもあった。光沢を放つものや、花の刺繍が施されたものもある。シミが付いたものもある。それらを全部、口に押し込む。くそう、と言ったつもりが目一杯に詰め込んだ下着のせいで、ふほぅ、と変な声しかでない。

順番に食べていって床に捨てると、唾液でどろどろに濡れた下着は空気が抜けた風船みたいに崩れた。情けなくて叫びたくなる。菜摘の留守中に俺は何をしているのだろう。大した味もしない薄い布を次々に食べては吐き出しているのだ。生地から飛び出たほつれた糸を引っぱったりして、もうこれは捨てようなどと考えている。

菜摘が風呂に入っている間、脱衣所に置かれていた下着に興味を持った。触ってはいけない神聖なものだという気がしたし、手に持っているところを見らでもしたら、それこそどんなに軽蔑されただろう。だから見ることしかできなかった。でも今なら遠慮はいらない。俺たちの関係は終わるのだ。下着がいくつか穿けなくなることなど大した問題には思えなかった。

嘲笑うかのようにパートナーが立ち上がる。下着を奪い取り、唾液で汚れたままのそれを体に擦り付けて必死に動かす。全身の力が抜けていき、体を支えられなくなってしまう。神経が冴えてしまい、鋭い思考が頭を駆け巡った。夢を思い出す。菜摘と戯れた事実が現実のことだと思えるように、しっかりと刻み込む。

パートナーが硬くなり、糸を引く。できることなら夢を見たい。妊娠する前の菜摘に会いたい。腹の奥底から熱いものが込み上げてくる。パートナーが勢いを放った。下着はそれを受け止めきれず、溢れて手に付いた。とても粘ついていて、不思議な光沢が心を捉えた。そうか、と納得する。見えないほど小さい無数の細胞が命に変わったのだ。菜摘が見せた胎児の写真があった。病院で撮ったという体内の写真。どかにしまってあるはずなのだ。本棚を探してみる。二人の写真を集めたアルバムが見つかった。それを開くと、そこには検診のたびに撮影された写真が何枚も残されていた。

俺はこれまでまともに見てこなかったのだ。見つけたアルバムを食い入るように見つめる。時系列で並べられているから、成長がよくかわる。最初は黒い点だ。これが人になるなんて信じられない。ただの埃のようにしか見えないのだ。それがしばらく経つと大きくなる。形を変えて魚のような、動物が丸くなって眠っているような写真に変わる。物質だったものが生物になり、人になる、その過程が手の中で並んでいる。そこに神秘を見た。

アルバムを閉じて本棚に戻す。散らかった部屋を見渡す。床に落ちたものをひとつ、またひとつ拾っていき、元の場所に返す。幸いにも壊れて使えなくなったものはない。菜摘の下着を洗濯する。洗剤を入れて蓋を閉める。まだ日は高い。これから干しても夜には乾くだろう。片付いた部屋を見て、子供が産まれたら模様替えをしようかと思う。おもちゃを置いて、ベビーベッドを置いて、それから通販カタログを二人で眺めて、足りないものを買いそろえるのだ。

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