上賀茂神社にゆかりの二つの国有林

 上賀茂神社の周辺には、祭神の別雷神が降臨したとされる「神山(こうやま)」が神社の北にあり、そこから東に連なる山を「本山(もとやま)」と言います。これを総称して「賀茂の神山」として歌枕として和歌に詠まれています。そして「神山」も「本山」ももとは上賀茂神社の社地でしたが、明治の上知令により国有地となり、神山(こうやま)国有林と本山(もとやま)国有林となっています。本山にはいくつかの峰があり、当ブログでもその名前が出ています。ここで一旦整理してみます。
 「江戸時代の神山」で触れています「大田の小径」をたどります。この道は平成17年(2005)に上賀茂地区の住民らによって整備された全長約770m、30分ほどの散策路です。 
 大田神社の本殿の左に入り口があり、上賀茂神社宮司が揮毫された案内板があります。登り始めてまもなく峠(分岐点)があり、右の稜線沿いの道に行きます。途中に標識がいくつもあり、また両側がロープで囲われていて歩きやすい道です。この山は「神宮寺山」といい、上賀茂神社の裏から続いています。ほとんど起伏のない道が続き途中で2ヶ所南側が開けた場所があります。大田神社から歩くと終点は岡本口で、ここにも案内板があります。この場所は大田神社より一筋北の山側になります。 
 大田神社は上賀茂神社の境外摂社で、祭神は天鈿女命(アメノウズメ)。所在地は北区上賀茂本山(もとやま)340。上賀茂神社から東に徒歩約10分です。参道東側にある大田ノ沢のカキツバタ(杜若)が有名で、昭和14年(1939)に国の天然記念物に指定されています。
 大田神社の裏山は現在は特に名前が付けられていませんが、かつては「大田山」あるいは「中山」と呼ばれていました。先述の『上賀茂村志』には、「太田山 本山の東の一峰を太田山といふ太田神社其下にあるを以てなり太田の澤は社の前にあり昔より和歌に詠みし名所なり」とあります。現在は「大田」と書かれますが、明治時代は「太田」と書いていたようです。
 上賀茂神社の裏山のうち東側の約170mの峰を「神宮寺山」、北側の標高点152mの峰を「丸山」(御生山とも言います)、丸山の東の約130mの峰を「小丸山」と呼びます。神宮寺山の東が大田神社の裏山(太田山)になります。大田神社の裏山は現在では神宮寺山の一部とされているようですが、『上賀茂村志』には「太田山」とあり、貞享元年(1684)の『莵藝泥赴』には「太田の山を中山といふ」とあり、太田山とも中山とも呼ばれていたようです。中山というのは、いわゆる本山の中間地点ということからでしょうか。
 下鴨神社は賀茂川と高野川に挟まれた平地にあり、現在は市街地の中にあります。糺ノ森という広い森の中に鎮座しますが近くには山がありません。山は神が降臨する場所として重要でした。上賀茂神社は北に神山、東に本山という神の降臨にふさわしい場所がありますが、下鴨神社は神の降臨する山、いわゆる「御生山」は神社から離れた八瀬の御蔭山に求めたことになります。
 『京都府愛宕郡村志(きょうとふおたぎぐんそんし)』は明治44年(1911)の刊行。冒頭に郡志を置き、各村について様々な項目で説明しています。愛宕郡内の村は、田中、白川、修学院、下鴨、松ヶ崎、鞍馬口、上賀茂、大宮、鷹峯、野口、雲ケ畑、岩倉、八瀬、大原、静市野、鞍馬、花背、久多の各村です。
 『莵藝泥赴(つぎねふ)』は北村季吟(きたむらきぎん、1625~1705)が淀城主稲葉氏の強い願いにより貞享元年に山城一円の名勝旧跡に関する故事由緒について記したもの。北村季吟は現在の滋賀県野洲(やす)市に生まれ、元禄2年(1689)には歌学方(かがくがた)として幕府に仕え、以後北村家が幕府の歌学方を世襲しました。主な門人に柳沢吉保、松尾芭蕉がいます。






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