もう一つの聖地産田神社(2)ー紀伊続風土記の記事

『紀伊続風土記』の産田神社の記述の現代語訳がネットに出ています。それによると、産田神社は紀伊国牟婁郡奥有馬村にあり、境内の周囲三町半、殺生が禁じられ、社殿は2社、一つは伊弉冉尊社、もう一つは軻遇突智命と伊弉諾尊社。村中にあり、奥有馬村、口有馬村(花の窟がある場所)、山崎村3ヶ村の産土神(うぶすなのかみ、鎮守様ということです)。土地の人が伝えるところによると、イザナミノミコトがこの地でカグツチノカミをお生みになられたから産田と名付けられたといい、これは神功(じんぐう)皇后が応神天皇をお生になられた場所を宇弥(うみ)というのと同じ。後にその土地の標(しるし)とするためにこの場所に神社を建てて、イザナミノミコトとカグツチノカミを祀ったということです。イザナギノミコトは夫神なので後に並べて祭ったということ。(永正年中の棟札にも産田二所とあるので、古くから2社として祭っていたのでしょう)。永正年中とは、永正18年(1521)で後柏原天皇の時代にあたり、棟札には「奉棟上産土神社二所大明神」とあり、権現ではなく明神となっています。
古い時代には榎本氏が代々神官で社領の管理をしていましたが、中世以降は別に神主を置いて神事を行わせました。永正の棟札に有馬荘の榎本朝臣和泉守忠親神主藤原森純白とあります。天正(1573~1592)の頃、榎本氏が断絶し、神社も衰退し、「兵火にかかって古記録が伝わらないことは残念なことです。」とあります。さらに有馬荘について、全13ヶ村があり、東側は大洋に面しており、土地は平坦で広く、山も高くなくて谷も深くはないが、山林資源に乏しく、漁業も利益があがらず、近隣の郷より困窮しているとあります。なかなかシビアです。有馬の名前は神代巻(日本書紀)に見え、後世には速玉大社の神領で、榎本氏が新宮から来て、産田神社の神官となり、子孫が有馬氏となってこの地を治めたが、有馬氏に後継ぎがなく、新宮の堀内氏から養子を迎えたが堀内氏も後継ぎが亡くなり、この養子が両家を継承して堀内を名乗りましたが、関ヶ原の戦いで西軍についたため、熊本の加藤清正のもとに送られ熊本で亡くなりました。江戸時代には、寛文年中(1661~1673)に花窟ととに殺生禁断の地とされ、享保17年(1732)に紀州藩から燈籠が寄進され社殿が修復されています。祭日は毎年正月10日、隣郷の貴賎が群集して参拝するとあります。
神社に伝わる棟札は、永正18年(1521)、慶長6年(1601)以下があり、また二天門の棟札があり、それには豊臣秀頼による寄進とあるそうです。この二天門は、江戸末期にはすでに存在していないとあります。二天門は寺院にある二体の金剛力士像が睨みをきかしている門ですが、神仏習合の名残であるとともに、豊臣秀頼が寄進していますから立派な門だったのでしょうね。今は産田神社の規模は小さいですが、江戸時代初期にはかなりの規模だったのでしょうね。
『続風土記』の編纂者も書いていますが産田神社の古記録が兵火で焼失してしまったのは本当に惜しい気がします。
それでは現在の神社の様子を見てみましょう。


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