千翁命は高倉下?ー高倉下伝承を再構成

藤白鈴木家に伝わる系図によると、物部氏の祖のニギハヤヒの子孫(五世の孫)の千翁命(チオキナノミコト)が大和入りのため迂回して熊野にやって来た神武に千束の稲を献上したので穂積の姓を賜り、そしてこの時、梛(なぎ)の木に鈴をつけて道案内をしたので、後に千翁命の子孫の穂積国興の三男穂積基行が分家に際して鈴木を称するようになり、その鈴をつけた梛が御神木となった。とあります。
千翁命はこのブログの『牛鼻神社ー神社の由緒(1)、(2)』にも書いています。牛鼻神社の伝承によれば、千翁命が千束の稲を献上したのは、神武からは後の第12代景行天皇(日本武尊の父)とされています。その功績により、景行天皇から穂積の姓を賜り、三人の息子が榎本、宇井、鈴木の熊野三党の始祖となり、牛鼻神社には熊野三党の始祖を祀っているとあります。この伝承に従えば、牛鼻神社には当然千翁命が祀られているはずですが、祀られているのは高倉下です。高倉下は神武にタケミカヅチから託された剣を届けることで神武の危機を救います。千翁命は稲を景行に届け、高倉下は神武に剣を届けて、ともに天皇の危機を救います。千翁命が届けた相手は景行ではなくて神武だとする説があります。牛鼻神社の伝承では景行天皇が悪鬼を退治しに熊野に来て、戦いが長引き食糧危機に陥った天皇軍に稲千束を地元の豪族千翁命が献上したことで、天皇軍は勢いを取り戻して悪鬼を退治したという話になっています。この景行を神武、悪鬼をニシキトベ、稲を布都御魂剣とすれば、この豪族は高倉下としても違和感がありません。高倉下の高倉は穀物を収める倉庫ですから、高倉下は献上するだけの稲を十分に持っていたことが理解できます。稲千束は比喩的な表現であり、稲に代表される食糧とすれば、タケミカヅチから託された剣を届けるという話よりも現実的です。それを基に高倉下の話を再構成すると、熊野に来た神武軍は上陸地の支配者ニシキトベと戦争状態になり、その結果食糧が不足して戦意喪失状態になったのを知った高倉下が食糧を届けたことで神武軍が立ち直りニシキトベを滅ぼしたというストーリーになります。ニシキトベの毒にあたって意識不明になったというよりも具体的な内容で説得力があります。私はこのように考えますが、いかがでしょうか。
最初に書いた藤白鈴木氏の伝承では千翁命が稲千束を献上したことで穂積の姓を賜り、後に穂積基行が分家する際に、梛の木に鈴をつけて天皇を案内した故事にちなんで鈴木と名乗ったとあります。収穫した後の藁を丸く積み上げたものを熊野では「すすき」または「すずき」と言います。穂積と同じ意味です。それで「穂積」を「鈴木」と書き変えたのだと言われています。鈴は十種神宝を使っての儀式の時に振られる鈴から、木は御神木に象徴される神の依り代からとられたということでしょう。「鈴木さん」は一般的には自動車メーカーで知られる「スズキ」と読みますが、「ススキ」と読む旧家もあります。トヨタも創業家の豊田さんは「トヨダ」ですから、よく似た話です。
和歌山県有田郡広川町の「いなむらの火」の話は津波の襲来を村人に知らせるためにこの「すずき」に火をつけて燃やしたということで、村人が避難した道路沿いにはこの「すずき」の見本が置かれています。


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