賀茂別雷大神の誕生(2)ー山城国風土記逸文その2

別雷神の誕生の由来を伝える『山城国風土記』は『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』に引用されています。風土記の原本は伝わりませんが原本から引用されていますから「逸文」ということになります。  『釈日本紀』は鎌倉時代後期に書かれた『日本書紀』の注釈書で、全28巻。『釈紀』とも略されます。著者は卜部兼方(うらべのかねかた、やすかた)。鎌倉時代の人ですが生没年は不詳。書かれた時期もはっきりしません。
山城国風土記逸文に書かれていることをみていくことにします。
建角身命は日向の曾の峯に天降ったとあります。曾の峯とは、高千穂の峰のことで、高千穂の峰は「襲(そ)の高千穂」と言われます。高千穂の峰はニニギが天降った場所ですが、その伝承地は宮崎県北部の西臼杵(にしそのき)郡高千穂町と、宮崎県と鹿児島県にまたがる霧島連山の2ヵ所あります。ここでは、建角身命は天孫降臨に同行したとなっていますが、建角身命は神武の時代に活躍しますから天孫降臨より後になります。これは建角身命のルーツは天津神であるということを言うために作られた話ということになると思います。
建角身命は神武の先導をして、大和の葛城に本拠を構えたとあります。大和国の葛上郡(かつじょうぐん)は賀茂朝臣氏の本拠地で、ここには高鴨(たかかも)神社、賀茂都波(かもつば)神社、葛木(かつらぎ)御歳(みとし、みとせ)神社があります。三社とも御所市に鎮座します。賀茂朝臣氏(かものあそんうじ)は三輪氏の系統で、建角身命の系統とは異なりますが、混同されているようです。
建角身命は、葛城から山城国の岡田の賀茂に移ります。もちろんこれは建角身命の単独行動ではなく一族を率いてということになります。岡田には「岡田鴨神社」があります。
岡田鴨(おかだかも)神社は、京都府木津川市加茂町(旧相楽郡加茂町)北(きた)44にあります。北鴨村44となっている記事もあります。祭神は建角身命。社伝によれば崇神天皇の時代に賀茂県主氏(かものあがたぬしうじ)により、先祖の建角身命に縁のある岡田賀茂の地に下鴨神社より勧請されて創建されたとあります。そのためか社紋は賀茂社と同じ二葉葵です。文献上の初見は『日本三代実録』の貞観元年(859)正月27日条。『延喜式』神名帳では、山城国相楽郡に「岡田鴨神社 大月次新嘗」とあり、式内大社に列しています。近代社格制度では郷社。元は現在地より北方に鎮座しており、木津川左岸の旧社地には「鴨大明神趾」の石碑があります。木津川の流路が変わりたびたび水害に遭うようになったため、高台にある現在地に遷座しました。この場所は奈良時代の元明天皇の岡田離宮の旧跡と伝えられ、離宮が廃止されたのちに、その旧跡を保存するために村人が菅原道真公を勧請して「天神社」と称していました。そこに岡田鴨神社が遷座したものです。天満宮は境内社として現在も祀られています。
山城国風土記には山代河とありますが木津川のことです。木津は平城京の造営にあたり木材を陸揚げするための港が造られたことに由来します。三重県及び京都府を流れて京都府と大阪府の境付近で宇治川と桂川とに合流する全長99kmの河川。木津川市でそれまで西に向かって流れていたのが北へと方向を変えます。
木津川市は木津町、加茂町、山城町の三町が平成19年(2007)3月12日に合併して誕生しました。


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