乙訓坐大雷神社の論社ー角宮神社の2

角宮神社の社伝によると創祀は継体(けいたい)天皇の勅命により創建されたとなっています。継体は第26代の天皇で、507年に大阪府枚方市の樟葉宮(くずはのみや)で即位し、511年に京都府京田辺市の筒城宮(つつきのみや)に移り、さらに518年に弟国宮(おとくにのみや)に移ります。弟国宮の場所について、本居宣長は『古事記伝』で「井ノ内村、今里村の辺なり」と書いています。今里の場所は井ノ内の南になります。継体天皇の住まいがこの場所にあったという伝承から角宮神社の創建が勅命によるものとなっているのでしょう。
角宮神社は戦国時代に現在の場所に再興され、それ以前の鎮座地は現在地の500m
ほど西にある宮山とされていますが、現在この場所には神社の痕跡は残っていません。
『続日本紀』の大宝ニ年七月八日条に「山背國乙訓郡にある火雷神は、雨乞いをする度に霊験がある。大幣(おおぬさ)と月次祭(つきなみさい)の幣帛(みてぐら)を奉ることにせよ」とあります。このことから乙訓坐火雷神は、その神の神格が水をもたらす農耕神としての性格が強かったと言えます。
角宮神社は承久の変(1221)に兵火で焼けてしまいます。承久の変の際に神主が朝廷側に味方して敗れたため領地があった丹波国に逃れたという伝えがありますが、この伝承は向日神社に合祀された火雷神社の伝承です。角宮神社と向日神社に合祀された火雷神社は、ともに火雷神を祀っており、場所も近いですから、この両社が混同されています。向日神社についてはあらためて説明します。
角宮神社は『続日本紀』によると、桓武天皇の長岡京遷都の際に、賀茂上下社、松尾社とともに従五位下に叙せられています。角宮神社はこの三社と同格であったということになります。またこの四社は別雷神の誕生に関わる神社でもあります。
地名の井ノ内の由来は近くに七つの湧水の泉があったことからといわれています。角宮神社に祀られる火雷神は雨に霊験のある神とされており、湧き水の豊かな場所は鎮座地としてふさわしいものだと思われます。
神社境内には、長岡天満宮から遷した舞殿があり、その前に磐座があるそうです。境内社は、八幡宮と一つの覆屋の中に、向日神社(鵜草葺不合尊)、稲荷社(倉稲魂命)、大神宮(天照皇太神)があります。
角宮神社へのアクセスですが、阪急電車の西向日駅から18分(1.4km)、長岡天神駅から22分(1.8km)、東向日駅から25分(2km)です。またこの後に紹介します向日神社へは東側に向かって徒歩約15分です。
それでは向日神社と、向日神社に合祀された火雷神社について話を進めていきます。

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