鈴木重家の後日談(1)ー遺児の清行と重染

伊予国の土居氏には2系統があり、一つは越智(おち)姓の河野氏の流れを汲む一族と、もう一つが、鈴木重家の息子である清行(千代松)を始祖とするものです。重家は伊予守であった義経に代わり伊予国に派遣されていましたが、義経の奥州落ちに随行する際に清行を伊予国主河野通信(かわのみちのぶ)に預け、清行が元服する際に一族が住む紀伊国牟婁郡土居(現在の熊野市木本)に由来して土居氏を名乗らせたと伝えられます。通信は娘を清行に嫁がせ、また宇和郡三間郷(みまごう)に領地を与えます。その後土居氏は宇和荘の領主である伊予西園寺氏に仕えます。三間郷(旧北宇和郡三間町、現宇和島市)にある土居中(宇和島市土居中、どいなか)という地名は土居氏が領主であったことに由来します。
伊予西園寺(さいおんじ)氏は藤原氏の閑院流(藤原道長の叔父、閑院大臣藤原公季が家祖)の流れを汲み、室町時代から戦国時代にかけて宇和郡一帯に勢力を持っていた地方豪族です。
河野通信は重家から託された清行を大切に育てたことが分かります。通信は伊予水軍を率いており、熊野水軍との交流が背景にあったことが窺えます。また通信は時宗開祖の一遍の祖父であり、一遍は本宮大社で熊野権現の啓示を受け布教の決意を固めた熊野成道で知られています。通信は重家の子で鈴木氏の後を継いだ重次と同様に承久の乱では朝廷方に加わっています。通信が朝廷方についたことで河野氏は妻が北条時政の娘であったことから唯一幕府方についた息子の通久(みちひさ)が当主になりますが、勢いを失ってしまいます。通久の兄が通広(みちひろ)で、通広の次男が一遍です。通信(1156~1223)の生まれた年に保元の乱が起きています。亡くなったのは配流先の陸奥国江刺で、後年一遍が墓参りに訪れています。また次に述べる重染寺も江刺にあります。
岩手県奥州市江刺重染寺(えさしちょうせんじ)に、源義経、鈴木三郎重家、鈴木小太郎重染の供養塔があります。この供養塔は平成17年(2005)4月30日にNHK大河ドラマ「義経」の放映にあわせて江刺市観光物産協会が重染寺の跡地に建てたものです。重家の息子とされる重染は、父の仇を討つために建久年間(1190~98)に紀伊国から陸奥に赴きます。陸奥国に入ったところで仇の顔に似た人面石を見て、悟るところがあって仇討ちを止めにして供養のために寺を建て、鈴木山重染寺(れいぼくざんちょうせんじ)と号します。重染はその寺で菩提を弔ったものと思われます。鈴木氏は神仏習合の熊野権現の神官ですから、僧侶としての修行も行っていたのでしょう。重染寺がいつ廃寺になったのかは知りませんが、義経のドラマが放送されたのをきっかけに供養塔が建てられたということはやはり地元ではこの伝承がいきていたということで感慨深いものがあります。
清行も重染も重家の息子が主人公の後日談ですが、重家自身が生き延びての後日談があります。まず、重家が神職であるという経歴に基づく伝承です。
陸奥国閉伊(へい)郡近内(現岩手県宮古市近内、ちかない)の鈴木氏は、重家が平泉を脱出した後、義経の命により横山八幡宮(よこやまはちまんぐう)の宮司として残されたことに始まると伝えられています。この時重家は老齢であったために残されたという伝承があるようですが、一方では重家が平泉で亡くなったのは33歳という伝えもありますから、はっきりしないです。ただ重家は武将ですが、同時に藤白神社の神職でもありますから、宮司になるのは特に問題はありません。横山八幡宮は、祭神が品牟陀和気命(ホンダワケ)、豊受姫命(トヨウケヒメ)、天照皇大神。鎮座地は宮古市宮町(みやまち)2丁目5ー1。宮古駅から徒歩10分。横山八幡宮は創建が白鳳9年(680)と伝えられる古社で、盛岡八幡宮と共に旧盛岡藩領を代表する八幡宮です。宮町と近内はそれほど離れていないようです。


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